SFは死んだのか?

思うに、SFで「未来」と思っていたものが既に多くは時代遅れの滑稽なものになっている、というのが現代なんだろうね。

おそらく、SFはSR(Science FictionではなくScience Real)になり、SF作家の想像力をリアルが超えようとしているんでしょうね。ただSF作家が力不足ということではなくて、人間の想像力なんてのは、その程度のものだった、というのは、正直なところ、認めざるを得ないところまで来たんだね。

現実は、マクルーハンが夢想した未来も超えて、いまや、マスコミやテレビは時代遅れと言われるくらいになった。未来学という言葉もあったが、いまは死語だ。

民間企業のロケットが宇宙飛行をはじめ、GoProで宇宙からの映像を渋谷のスクランブル交差点の映像を流すがごとくに僕らは見る時代がやってくるんだろうね。すぐにね。

「SF作家?そういう仕事は何十年前に廃れたよ」

そういう時代が来るのだろう。

だから、現代のSF作家は、ある種の男が理想とする女性への憧れを映像にして「SFである」と表現しなければならなくなったんだな。そんな女性はもういません。いないから憧れる。でもいないし、求められもしない。そういう時代に変わったんだよ。

ぼくらはもう、全く違うパラダイムの中で人間という存在の前提を作り直すことが必要な時代に、半分脚を突っ込んだんだよ。どうする、君。どうする?ぼく。

ファンタジーは残るだろうし、フィクションももちろんある。しかし、Scienceはもう、SFにはないんだろう。

 


 

「災害お助け情報」はあてになるか?

西日本の台風や異常気象による水害、北海道の地震など、多くの災害が日本を襲っている。実際のところ、世界的な目で眺めると、日本だけではなく、昨今は多くの地域で自然災害が多い。米国・カリフォルニアの過去最大になった山火事や、ハワイの火山の噴火などもそうだ。

こういった、災害時、人々が緊急避難した体育館などでのサバイバル術などが、あちこちで取り上げられている。たとえば、「単一乾電池や単二乾電池がないとき、単三乾電池で置き換える方法」などだ。しかしながら、現在秋葉原を歩いても、単一乾電池とか単二乾電池がなかなか手に入らない。使われている機器が少ないのだ。家庭でいえば、ガスコンロの着火用の電池などは単一乾電池などが使われているが、かなり減った。ほとんどの機器は「単三乾電池、あるいは単4乾電池」になってきているので、むしろ「単三乾電池が無いときに、単4乾電池で置き換える方法」のほうが知りたい。が、そういう情報はほとんどない。

一見、便利なように見えるが、実際の場面ではまるで役にたたない知識なのだ。

他にも「スマホの電池を長持ちさせる方法」なんかも、災害時のみならず、けっこう出回っている情報だ。しかし、スマホの電池を長持ちさせる方法はズバリ「画面表示の時間をできるだけ短くすること」に尽きる。というのは、スマホの電力消費のうち、一番大きいのがディスプレイの表示にかかる電力だからだ。アプリがどうの通信がどうの、というのは、実はそんなに電力をセーブすることにはらならない。

また「前の3.11の震災のときは、電話は黒電話が通じやすい」という「伝説」もある。実際、そのときはそうだったろうが、現状はそうでもない。その昔(といっても数年以上前)、電話網に接続されている電話機で必要な電気は、電話線を通して供給されていた。そのため、停電時などでも電話局が生きていれば、電話は通じた。しかし、現代の電話は目の前にある受話器が黒電話であっても、それの電力供給などは、会社や組織などの小型の交換器(電話局とは光ファイバーなどでデジタル信号でつながれている – 当然のことながら光ファイバーで電力は供給できない)を経由していることが多く、電力は電話局から供給されていないから、停電とともに、電話は使えなくなる。また、電話網自身も既にIP化(簡単に、なおかつ大雑把に言えばインターネット化)が進んでいて、この電話網のどこかがやられたら、電話は通じなくなる。

5年も時間がたつと、目の前のものは変わらなくても、背後にある複雑で巨大なインフラは全く違う技術に置き換わっており、動作の原理も変わる。であれば、数年前の昔の情報は役に立たなくなるのは、当たり前だ。しかし、私達専門家はそのことを知っているが、多くの人は専門家ではないから、そのことを知らない。数年前の「教訓」がそのまま今も生きていると思っている。

時間とともに、あらゆるものが猛スピードで変わっていくのが現代なのだ。自分で勉強しない限りは、あなたの知らないところで、それは変化している。

 


 

PCの設定は自分でやる時代。困って人に頼むな。困った人は脱落するに任せろ。

現代において、あらゆる会社などの組織のITというものは、基本的に運送会社のトラックのようなものだ。それがなければ仕事が成り立たない。しかし、運送会社はトラックの整備は専門の整備士や会社専属の整備工場にお金を払って任せ、トラックの運転などは社員ができて当たり前であり、社員の必須の能力であることが前提だ。しかし、ITの分野では、そういうことはいまだ認識されていない。

既に米国の大統領でさえ、SNSなどを自分で使う時代である。スマホも自分用のものを 持って使いこなす。マレーシアの新首相であるマハティール氏も90歳を超える高齢ではあっても、自分用のスマホを手放さない。世界はこういう時代になっているのだ。

こういう時代にあって「IT」は「自分がやるもの」であって、他人の手を煩わせるものではなくなっている。メールソフトの設定くらいは、自分でやるべき時代になった。ほんの20年前くらいまでは、日本の経済もまだまだ余裕があったから「無駄な動き」は許されていたが、今はそうはいかない。メールソフトの設定を頼む方も頼まれるほうも「ゆとり」があった。今はない。さらに、ITは当たり前のものになり、ITがなければ仕事は1センチも進まない時代になった。

時代が変わったのだ。

こういう時代にあっては、ITのことで他人の手を煩わせるのであれば、やはり少額でもお金を払うべきだし、やるほうも「ちょっとだから」と「やってあげる」ということはやめるべきだろう。

あなたが新聞配達を仕事にしているとして、自転車がパンクしたら、自転車屋にパンク修理を頼むだろうし、自分でやる場合は、キットを買ってきて自分でできるだろう。

ITの不具合とは、そういうレベルのものになったのだ。

 


 

満員電車で考えたこと

久しぶりに、数日、朝の混雑する通勤電車に乗っているんだが、「そういうのに乗るのは何十年ぶりだろう?」と思い返している。その数十年の時間で、この国はなにも進歩していないなぁ、とも思う。

朝夕のラッシュは、ICTを駆使した、ペーパーレスのリモートオフィスの出現でなくなるはずではなかったのか?その代りに、人工知能があるから、って人間さえいらなくなる、という未来がやってきた。

古くからある「時差通勤」とか最近言われる「働き方改革」で、朝夕の通勤ラッシュ・帰宅ラッシュはなくなるんじゃなかったのか?代わりに、人間のいらない「人工知能会社」ができるだろう。

「人工知能」ってのは、今のITを象徴的に言っただけの言葉で「人工知能」という特別なものがあるわけじゃない。「ディープ・ラーニング(Deep Learning)」という手法で統計を取り、その統計に従って、マシンが自動的に自分の動作を決める、というものだ。ディープラーニングは膨大な量のデータを扱い、統計を取るので、多くのデータを入れる場所と、それをアクセスし、演算する速度が必要で、かつてはそういうハードウエアには多大なお金がかかっていた。しかし、現在はそういうハードウエアにかかるお金は非常に安くなって、大衆化した。技術としては昔からあったものだが、それが「実用化」し「大衆化」するための「コスト」という障壁が取れた、というだけだ。

であれば、次に必要なのは、こういう「安価で便利なもの」をどのように作り、どのように使いこなすか、ということになる。しかし、この数十年、その「考え方」がまるで変わらないのが「日本」という地域だ。

リモートオフィスが簡単で安価に実現できる技術が手に入るのに、なぜ出勤ということをするのか?人に無駄な苦労をさせるのは組織の団結のため、という考え方もあるだろうが、そういうものはここ数十年でガタガタに崩れた。この先はもっと崩れていくだろう。なぜならば、何事かを成す場合、人の組織そのものが不要な時代になりつつあるからだ。

人のエネルギーも、実際の電気などのエネルギーも無駄なものは無駄である。社会のあり方や考え方を変えて、この「無駄」を極限まで減らすことが求められている。思考を変え、働く人はもっと楽に。そして、人工知能やリモートオフィスをもっと便利に。それがあるべき「高度ハイテク社会」ではなかったのか?

日本は先進国である、というのであれば、そういう変革を躊躇することはない。

 


 

日本の「都会」と「田舎」の消滅

日本の田舎ってのは、要するに資本主義の経済原理とは文化的に違う。逆に資本主義の経済原理を批判する側に立って見ると、資本主義そのものが、グロテスクな怪物みたいに見えると思う。

田舎でも、「東京に出て来て成功し田舎に凱旋する」と言うモデルがあるでしょ。つまり「成功」は田舎ではなくて、「東京という戦場」でするものなんだな。田舎で何か突飛なことをして成功するのは、真っ平御免ということの裏返しなんですね。つまり「田舎は帰るところ」であり「都会は戦争しに行くところ」なんだな。

つまり「生活の場」と「戦争の場」が地域的に別である、という前提で日本(だけじゃないが)の社会はできて来ているんだね。しかしながら、物流、人流、情報流が非常に低いコストでできるように発達した現代においては、こういった「都会」と「田舎」は、だんだんと境界線を無くして行くんだね。これは人類始まって以来の大きな変化なんだな。文化への影響というものを考えるとね。

沖縄にもコールセンターなんかできちゃうわけですよ。だからさ、インターネットって面白いよねぇ、世の中を変えるよねぇ、と思って、ぼくは始めたんだよ。そういうものにピンときた。ってのかな。ぼくは都会で戦い続けて、田舎を持たない。だから、ぼくはおそらく無意識に田舎を戦場にしようとしている人間に見えるんでしょうね。でも、それは当たり前に始まる、人類全体の変化なんだよ。思い出せば、それはぼくの親子三代にわたる、ぼくの一家のたたかいでもあったんだなって思うよ。しかしね、時代は変わる。繰り返さない。常に変化して行く。

やがて始まるのは「地域」の境界がなくなり、「地域」が消滅する時代だと思うんですよ。ぼくはね。まだぼくらの感覚はそれについていけていないけれども、そういう時代は必ず来る。そうなれば、必ずなくなるのは宗教だったり、文化だったり。一部で始まっているでしょ。どんな「地方」にも巨大なショッピングモールがあり、その中には都会にあるのと同じお店がある。どの国に行っても、空港に到着すると、雰囲気が同じなのは、最近の傾向だ。「それ」は始まっているのだ。それが、いいとか悪いとか、そういうことではなく、始まっている。変化は否応なしに、ぼくらの周辺を包み込む。それについていけるかいけないか。それが大切なことになる。生きていくためにね。


 

「人生百年時代」の「シニアの生き方」

日本という国にここ20年間で起きた変化は、非常に大きな変化だ。

まず、高齢化社会になったこと。少子化が進んだこと。少子化は「少子化という現象」であって、「原因」ではない。つまり「原因」をきちんと議論する必要があるのに、その議論がなかなかされていない。

日本という地域の高度経済成長期は、第二次大戦後の各先進国の高度経済成長期と同じ時期に起こり「大量消費社会」ができた。エネルギーからモノまで、同じものを大量に作り、1つだけのオーダーよりも、より安い価格で同じ品質のものを手に入れ、それを豊かさであると私達は思った。例えば、某巨大自動車メーカーの作っている100万円前後の「大衆車」も、オーダーで1台だけ作れば数億円する。多くの消費者は数億円のクルマを買えない。しかし、100万円前後であれば買える。大量消費には大量生産が必要だ。現代の「産業」というのは、基本的に同じ構造を持っている。

その「大量消費」「大量生産」が限界に来た。大量生産したモノがかつてより売れない世界になった。第二次大戦後の「高度経済成長期」は終わった。

そのころ、企業戦士として特化した訓練を受け、大量生産関係の技能を持つ人間が多くできたが、そういう人が余り始めた。そして高齢化した。加えて、インターネットと物流と人流が揃って国境を非常に低いコストと時間で超えていく時代が訪れた。人間の歴史の大きな屈折点ができたのだ。時代、人の世が変化している。大きく、だ。

そんな時代には、頭の中を改造しないと生きていけない。今まで大切なものが大切なものではなくなり、今までゴミのように扱われたものが非常に重要な意味を持つように、世の中が変わった。

「シニアが元気」なのは、そういう「製造業が元気で豊かだった時代」に若い時代を過ごしたからに過ぎない。この先もシニアが元気になるには、シニア自身の頭の中を、製造業に特化した頭から、何にでも対応できる柔軟なものに変更していかなければならない。いつの時代でも、頭が柔軟でないと生き残れないのだ。

 


最近のスマホとかPCとかは「電池を自分で取り替えられない」。

最近のスマホやPCは、良く見ると電池を、自分で、工具なしで、取り外しができるモデルが非常に少なくなった。PCやスマホの出来を昔から眺めて来ているのだが、これは主に以下の理由による。

  1. 薄く軽いモデルが好まれているので、電池の取り外しの機構などは薄型化の邪魔になる。
  2. できるだけ製造原価を抑えるため、電池の取り外しのための機構を省略する。
  3. 電池を利用者が取り替えられる「消耗品」ではなく、利用者が取り替えられない「部品」と位置付けることによって、保守代金をメーカーが公然と取ることができる。

要するに「電池の部品化」が始まっているのだ。主に、最初の理由が大きいのだろうとは思うが、「電池の部品化」は、利用者にとって以下の問題を起こす。

  1. 電池の寿命が来ただけで「修理」に出さなければならない。
    「修理」となれば、高額な修理費用が必要になる。
  2. 複数の電池を持って歩き、交換しつつ、運用することができない。
    →一日外に出ている営業マンなどは途中で電池がなくなったら、あらかじめ充電しておいたもう1つの電池と交換したい、ということができなくなった。

さらに、この裏には以下の事情がある。

  1. 電池の耐久性や単位体積あたりの容量が大きくなったので、電池がなくなったので取り替える、という需要が減った。
  2. なによりもコストダウンに貢献する。

私としては、例えばスマホなら、自分で工具なしで取り替えられるほうが良いので、未だに古いモデルのPCやスマホを使っている。最近はそういうスマホが減ってきたので、所有している一部のスマホは電池内蔵のものになってしまったのは、非常に残念だ。

 


 

インターネットの病巣「誹謗中傷」

このところ、というか、かなり前からなんだが、大きな問題になっているのが「ネット上の匿名での誹謗中傷」である。先日もマスコミで名前が売れた大渕愛子弁護士の第三子出産をめぐって、誹謗中傷があったらしく、大淵弁護士は訴訟も考えている、と報道されている

私は日本にインターネットを持ってきた、その一部を担った。「インターネットってなに?」なんて、多くの人に言われていた時代、ITという言葉が出てくる前からこの世界に関わってきたが、インターネット以前の「パソコン通信」と言っていた時代から、この手の「誹謗中傷」は非常に多かった。日本だけでなく、多くの国で「ネット上での匿名の誹謗中傷」は実は多く、ちょっとだけでも、ある世界で名前が世の中に知られると、その発言の一言半句が過大に取り上げられるなどの手法で、誹謗中傷が行われるのは、もはや日常になった、と言っていい。

このバッシングの手法は比較的簡単だ。「鉛筆を芯の側から正面に見ると、黒くて丸い。CDやレコードも黒くて丸い。だからこの2つは同じものだ」というやり方である。そして「鉛筆も尖らせれば凶器になる。だから、包丁と同じだ」という「(他人を傷つける、という)禍々しいイメージ」をこれに乗せて、誹謗中傷の道具にする。ほとんどがこのやり方だ。もちろん、こういう手法だけではなく「ウソ」をこれに混ぜる、ということも、誹謗中傷を行う犯人はやる。匿名なので、やり放題、ということもある。善意の第三者を装ってこれをやるわけだ。

人は多く心に闇を抱えている、と、インターネットの時代のはるか以前のフロイトも言う。その闇、はどこかで「開放」されることによって、その人の心の安定を得る。おそらく、これはあなたも私もみんな、大なり小なり同じである。ちょっとかそれ以上に名前が出る、自分のいる位置から遠い人間を「叩く」のは、そのリアクションを受けにくい、という事情もある。加えて、名前の売れている芸人や有名人を叩くのは、その「効果」によって、その周辺の多くの人も影響を受けやすく、「叩く側」の満足をより大きく誘うからだ。どこのものとも名前も出自も知れない人間を叩くのでは、面白くない、という事情もあるだろう。

インターネット以前の時代では、これは口から口へのローカルな口伝えで終わるため、地域ローカル、あるいは組織ローカルな「噂話」として広められるに過ぎなかった。今でも大学などの組織内では「怪文書」はあるそうだが、今はこれがインターネットで広域に広められるようになった。

そういう意味で、ネット上の誹謗中傷をまともに受け取る人は少なくなってきたものの、「有名でなければ、誹謗中傷を受けることはない」のだから、「誹謗中傷を受ける」のは、「有名になった」という証拠のようなものだ。そして、有名になればなるほど、匿名の誹謗中傷は増えていく。全くバッシングの無い有名人はいない。

「あいつだけいい思いをしやがって」という、嫉妬も、どの社会にもある。そして、嫉妬がきっかけの、こういう誹謗中傷は、ネットがあることによって、増えてきている。ネットも良いことばかりではないのは、普通の社会と同じだ。

ただ、自分がその「犯人」と同じにならないよう、気をつけたほうがいいだろう。ネットでの「匿名」は最初だけであって、実は訴訟などが起きれば、誹謗中傷の犯人の特定は十分に可能な仕組みを、各プロバイダーも整えている。というか、インターネットの仕組みが完全な匿名をできないようにしているからだ。ちょっとした嫉妬や不用意な感情に任せた発言があなたの人生を狂わせることも、これから増えていくだろう。組織の発言にしろ、個人の発言にしろ、ネット上での発言には十分に気をつけよう。


 

人のいない街

※本記事はフィクションであり、実在の団体、組織、人間とは一切の関わりはありません。

茶色いお洒落な少し天井の広い空間。ソファも座りやすい。気がつくと疲れもあって10分ほど寝込んでしまった。ここは喫茶店でもないし、居酒屋でもない。コンビニのイートイン空間。隣のコンビニで食べものや飲み物を買ってきて、ここで飲み食いができる。見れば、いつもは見かけない老夫婦が楽しそうに食事をしている。

家の中の老夫婦。夫は退職している。妻は専業主婦だ。

「あなた。暑いし、なにか食べたいから、あそこのコンビニに行きましょう。家の冷房の電気代も、もったいないわ」
「あそこ、冷房はあるけど、レストランじゃないからな。食べる場所は無いと思うよ」
「この前、改装で大きなイートインができたのよ。店員さんもいない、セルフレジ、っていうのになったのね」
「しかし、外は40度の猛暑だ、って天気予報も言ってた。暑くて外には出たくない。宅配してもらえばいいんじゃないか?」
「そうね。宅配って手もあったわね。でも私たち、まだ身体が大丈夫だし、行くのに不便はないでしょ?気晴らしに行きましょうよ」
「気晴らしか。そうだね。行ってみるか」

老夫婦が向かったのは、マンションから数分のコンビニだ。そこはセルフレジ導入済み。

「このところ、野菜が少ないから、サラダが欲しいわ。あ、この春雨のサラダにしましょう。それと飲み物は。。。。」
「なんだか、パッ、パッ、と買っていくねぇ」
「もうすぐお昼だから、並んじゃうでしょ。急がないと」
「なるほど。。。お、ビールもあるのか。ビールも頼もう。安いな。100円。居酒屋だったら350円とか言う値段だ」

老夫婦は、昼ごはんに買ったものをレジに持っていき、カウンターに置くと、レジに金額の表示がされた。その金額をカードで払うと、商品は勝手にロボットに袋に入れられ、夫婦の前に出てきた。

「簡単だなぁ」

今度は、「お父さん」が声をあげた。

「じゃ、隣のイートインスペースに行きましょう」
「ここか。すごく落ち着いていてきれいだ。まるでレストランみたいな作りだね。人も誰もいない」
「ここに座りましょう」

老夫婦が向かい合って座ったソファの席の間には、もちろんテーブルがある。夫婦はそこに今買ったものが入っている白いポリ袋を置いた。


気がつけば「人生100年時代」と言われる。日本は豊かな国でもなくなった。

老夫婦は、食事を食べ終わると、コンビニを出て、自宅に向かった。


「いつものクリーニング屋も雰囲気が変わったね。あ、あそこも人がいない。セルフレジになったのか」
「そうよ。一昨日行ったら、レジに洗濯ものを並べると、ロボットの手がにゅーっと伸びてきて、目の前であっという間に選別するの。シミ抜きが必要なものも、その場で広げてスキャナーが調べるんですよ。そして、料金が表示されて、カードで払って終わりなの。便利な世の中になったわ」
「俺がよく飲みに行く近所の居酒屋もみんなロボットになったんだ。夕方行くと、どこからともなく、いらっしゃいませ、だよ。そして、注文すると、数分で調理されたものが出てくる。最後に支払い。人の特定も、顔認識でするらしい」

二人とも、身振り手振りで、それぞれが経験した様子を楽しそうに語り合う。話は尽きない。イートインのスペースは「あまり長居しないように」という注意書きがあるが、この老夫婦を含め、多くの人たちが2時間以上そこにいた。


気がつけば、夕日がこの都心の小さな町を赤く染めていた。その夕日を見つめる老夫婦の顔も、夕日が赤く染めた。夕日の手前に東京タワーが見える。そして、なにかにハッと気がついて、夫が言った。

「なぁ、一緒にいて、もう何年になるかな。40年くらいかな。もっとかもしれないな。気がつけば、この住んでいる街は俺達と同じ老人ばかりだ。幸い、うちは介護の必要は今のところないが、必要になれば、ケアセンターに頼んで、部屋にロボットを設置してロボットケアをしてもらうことになる。お隣さんみたいにね。そして、スーパー、コンビニ、クリーニング、居酒屋。どこにも人間はいない。ぼくら老人だけがこの街で生きている人間だ。夫婦水入らず、ってのは、このことかな?しかし、若い人も子供も、若い夫婦も、この街には誰もいない。この先、この国はどうなるんだろう?」
「いくら考えてもわかりません。私達はそうするしかなかった、としか言えないわ。あぁ、でも今週の週末は介護ロボット製造会社で仕事をしている息子の夫婦が子どもたちを連れて来るって。久しぶりに休みが取れたから、って。誰もいない、ってわけじゃありませんよ」

老夫婦の顔が、夕日の中で、一瞬、緩んだ。

そんな会話をする老夫婦の前を、葬儀の自動運転車がやってきた。介護ロボットが、隣の家の老人の死を感知して呼んだのだ。介護ロボットを取り外す係員が数人、やってきて、介護ロボットを部屋の定位置から取り外し、どこかに運んで行くために、トラックに載せた。亡くなったお隣さんには、身寄りがない、と聞いている。ロボット以外、見送る者はない。そのロボットも、電源を切られ、いつもの定位置から外され、業者のトラックの上でじっとしている。悲しんでいるようにも見える。そうでないようにも見える。動かない。

「お隣の介護をされていたおじいちゃんね。亡くなったのね」

ポツリと、妻が言う。

「そのようだな。。。。明日はご近所に葬儀のお知らせが来るだろう。俺の喪服を用意しておいておくれ。ちょっとコンビニに戻って、香典袋を買ってこなきゃ。明日の葬儀には君も一緒に来るかい?」
「私は留守番をしているわ。だって。。。」
「だって、なんだい?」
「誰もいなくなる、って、寂しいことじゃない?」

その時、その街で生きている人間は、この老夫婦だけだった。

 

「巨大災害」にはLPWAが活躍する

大阪をはじめとした関西では、なんと6月18日に発生した震度5の地震の記憶も鮮やかな7月6日からの豪雨で、多くの地域の河の堤防が決壊するなど、多大な被害を出している。私は東京に住んでいるから、2011年の東日本大震災の記憶がある。これらの「大災害被災地」の地域一帯では、「交通の遮断や遅滞(公共交通機関は使えなくなる)」「インターネットなどの通信回線の切断等」「電源の喪失」は明らかに起こる。そのため、これらの地域と外部とのコミュニケーション手段は限られる。

しかしながら、時代はITの時代であり、メッセージングなどの手段がインフラともに生きていることが前提ですべてが動いているのが現代である。しかしながらその「通信手段」が断たれるのが「巨大災害」である。

こんなとき、「数kmの距離のデータ通信ができる」「消費電力が低く電池で駆動する」などの特徴を持った「LPWA(Low Power Wide Area)」は、非常に有効な通信手段となる

しかしながら、現状では日本ではLPWA網の構築は遅れており、全国レベルでの防災網はまだできていない。既に韓国ではSKテレコム社などが中心となって、韓国全土をカバーするLPWA網ができているのだが。。。。ということで、自分にもできることはないか?と考え、LPWAのハードウエアでプログラムを書く本を上梓したのだが。。。