戦争はなぜ起きるか?

韓国・釜山市の中心街からちょっと歩いたところに、「釜山近代歴史館」がある。簡単にいえば、韓国第二の都市、釜山の戦前から戦後にかけての歴史を詰め込んだ資料館である。建物はもともと、日本の戦前の国策企業である「東洋拓殖」の建物をそのまま使っている。日本のアジアの植民地運営企業である。メンテナンスも行き届いており、かなりきれいだ。この建物の中には、日本の植民地時代の街のジオラマもあり、その町並みの中には「憲兵隊」の建物もある。日本語の解説もあるから、日本人が良く訪れている。説明員の方も、日本語が堪能な方がいて、雑談をしに行くのも良い。

釜山の街には、日本語が溢れている。地下鉄の各駅には日本語の表示は必ずあるうえ、乗換駅近くのアナウンスでは日本語のアナウンスもある。さらに、巨大な釜山ロッテデパートでの管内放送には日本語での放送もあるし、街の屋台でも日本語の表示があるところがとても多い。主に、関西方面や福岡からの日本人観光客が多い。なにせ大阪や福岡から釜山往復の飛行機のチケットは1万円を切るものもある。大阪や福岡の人にしてみれば、パスポートさえ持っていれば東京に遊びに行くよりも安価で手軽に行ける。

さらに、釜山駅前には東横インもあるし、大きなホテルでは日本語は当たり前に使える。

東洋拓殖は最初朝鮮半島支配で、増える日本の人口のためのコメの産地にしようとしたが、日本国内では朝鮮半島のコメを受け付けず、結局コメの産地とすることをあきらめた。要するに、戦前の時代までの世界の戦争は、世界で増える人口を賄うための「植民地争奪戦」だった。そして得られた植民地で安い土地と安価な労働力で豊富な食料をはじめとする産品を作り、本国を潤わせよう、ということだった。そのため、日本の植民地となった台湾でも、日本の当時の政府が傾きかねないほどのお金を台湾に投資し、朝鮮半島もまた同じだった。つまり、当時の戦争は近代化に伴う人口増に対する需要を賄うためのもので、十分に採算があった。あれだけの兵力と武力、兵士の屍を作ってさえ、それは「採算に合うもの」というのが共通認識だったのだ。

しかし、時代は下って戦後になると、様相はがらっと変わった。民主主義が世界に行き渡り、土地の支配はできても、労働力の支配がうまくいかない。大量破壊兵器である核兵器は地域を一度に焼け野原にするが、そこを復興させるためには放射線は邪魔である。その放射線が十分に低くなるには少なくとも数十年の月日がかかる。その間は放置しておくしかない。細菌兵器などを使った場合も、同様の問題が起きうる。戦争そのものが現代は「割にあわない」ものになってきたのだ。

逆にいえば、戦争が起きる大前提は「イデオロギー」ではなく「カネ」なのだ。大きなカネが動かなければ、多くの人も動かない。そして、戦前は世界的な大不況を大量破壊で大量需要を作る、ということができたが、今は大量破壊の後を「復興」させるのに、多大な労力とお金がかかり「すぎる」ことがわかってきた。そのため、戦争は局地戦に限られ、「冷戦」とする他はなく、世界的な大不況でも、大きな戦争を起こすこともできなくなった。戦争におけるイデオロギーとは、要するに「お金」という目的を覆い隠して多くの人を戦争に向かわせるための道具であったわけだ。イデオロギーが宗教に似ているのは、そういうわけだ。

戦争はお金で起きる。富の争奪なのであるから、真剣になるのは当たり前だ。しかし、現代では、その目的である「カネ」がいま、世界から失われており、それはどうやら永遠に帰ってこないこともわかってしまった。

戦争とは詰まるところカネ(富)の奪い合いである。戦争をしたほうが得だったから、かつては戦争をしたのであって、今はしないほうが得だ、ということがわかってきてしまったから、なかなか戦争がしにくいのだ。

 


韓国はサイバー攻撃に対処せよ、って。

この朝鮮日報(日本語版)ニュースによれば、米国の元軍人が「サイバー攻撃にもっと危機感を持て」って言っているらしい

たしかに、その朝鮮日報の記事を見ても、「北朝鮮関係」の記事は、私達日本人が日本で見る北朝鮮の記事よりも、さらに少ないことがわかる。朝鮮日報日本語版の記事の昨日の記事は9件。そのうち、北朝鮮関係の記事は3件。そのうち、1件は「北朝鮮報道で日本から観光客が来なくて困る」という記事だったりする。日本の報道に比べ、韓国内ではいかに北朝鮮情勢についての危機感がないかがわかる。

そうは言っても、韓国の人たちの今の一番の関心は、自分たちの生活のことであって、戦争はそういう自分たちの生活に多大な影響を与えはするであろうことではあるものの、来てみなければわからない、というようなものだし、来るときは突然来るから、心配してもしょうがない、というものだったりするわけですね。

さらに、世界的な流れを見ても、既に戦争が主要な関心ではない時代にはいったし、なによりも「米国の元軍人」の言う言葉でさえ「サイバー攻撃に注意」であって、「核攻撃に注意」ではない、ってところがなんとも「元軍人」としては、隔靴掻痒な雰囲気がしないでもない。実際、核攻撃などの大規模な戦闘行為はその後始末に多大なお金がかかって、戦勝国といえども経済的に持たない、という事情もあるわけで、そうそう簡単に核攻撃ができるわけでもない、ってのが現代という時代でね。「世界の警察」米軍も縮小中だしね。要するに世界的にカネがない。だから、巨大な破壊行為はしにくいんですよね。

前述のニュースでは出ていないんだが、2014年には韓国全土で北朝鮮からと思われるサイバー攻撃で、韓国中の公共機関や大企業などのPCのブートセクタが書き換えられ、PCに電源を入れても動かない、ということがあったのは記憶に新しい。それでも、そのときの大混乱はいっときのことであって、3日もすると忘れられた、ということがあった。このときのことを考えれば、「大規模なサイバー攻撃」なんてその程度のもの、というくらいの危機感しか起きないわけですよね。

いまだに韓国の新幹線KTXの中のディスプレイのPCはWindowsXPだし(ついでに言うとしょっちゅうリブートしていてあの懐かしいスタート画面が。。。。)、まぁ、なんとかなるんでないかい?という、そういう雰囲気が韓国の国内では漂っているわけです。

昨日の朝鮮日報の記事で気になったのは、新聞記者どうし暴行死の記事

明らかに、日本の報道とはまるで違う北朝鮮関係の報道のテンションの低さ。韓国もまた、平和であってほしいです。

 


今更ながら、iPhone7plusとAndroidの他の機種を比較してみた

ぼくは東京に住んでいる。東京でふと電車で座っているときに、隣の人のスマホをちらっと見ると、だいたい50%以上の確率でiPhoneである。国内ではiPhoneのAndroidに対する比率はおおよそ7:3くらいで、明らかにiPhoneが多いのだが、世界的には圧倒的にAndroidがシェアを握っている。とは言うものの、いろいろといじって遊べるのはAndroidのほうがやはり上なので、ぼくは昨年11月までAndroidばかり数機種を使ってきて、iPhoneもiPadも使わなかった。しかも電話はIP電話を使っていた。しかし、昨年、どうしてもキャリアの電話番号にしてくれ、というお客様がいたので、仕方なく、キャリアの端末を買う羽目になった。2013年以来、MVNOのSIMばかり使ってきたから、今どきキャリアですよ。てやんでぃ、くらいな感じではある。どうせなら、ということで、機種もこのさい、iPhone7plusにしてみた。なんせ10万円ですよ。今どきPCのほうが安いわ。

などとブツブツと文句を言いつつ、「はじめての(キャリアの)iPhone」をこの半年、使い倒してきたのだが、まぁ、これは慣れの問題が大きいんでしょうね。ぼくは、Androidのほうがいまだにしっくりくる。iPhoneはあれこれと隠れている情報が出てこないので、面白くない。そのぶん、ぼくみたいな開発者ではない人には、iPhoneはいいんだろうな、とは思う。しかし、この端末に10万円ですよ。ありえない、というのが、本当のところ。

結局、キャリアのiPhoneについてきたSIMを他のAndroidの機種に入れ替えるとか、そういうのをさんざんやって、楽しんではいるのだが、電話がなかなかつながりにくくてすみませんねぇ。SIM外していることも多いからね。という状態になりつつある。で、iPhone7plusは使ってはいるのだが、面白い端末ではない。AndroidはASUSの電池を工具なしで自分で交換できる機種と、電池の交換はできないが、防水というところにアドバンテージがある富士通のM02を交互に使っている。雨の日はM02ですよね、奥さん、てなもんである。両方ともSIMフリーだから、当然キャリアのSIMも使える。毎日、あっちにこのSIMを挿して、こっちにあのSIMを挿して、なんていうローテーションを組んで楽しんでいる。

そのローテーションの中にiPhone7plusが加わったのだが、iPhone7plusはたしかにカメラはそれなりにいい。さすがに一眼のレンズ交換式のデジカメと比べると辛いものがどうしてもあるが、ちょっとしたスナップには、まぁ、これでも充分かいな、というくらいにはなった。防水であるところも気に入った。しかし、電池が自分で工具なしで取り替えられないのが不満だ。これはしょうがないといえばしょうがないんだけれどね。

どれもこれも日本の技適があるものばかりで、法律的には後ろ指さされることはまずない。困っちゃうのが、相変わらずLINEで、一日のうちにいくつも機種変更できない仕様に最近なってしまって、けっこう友人とのやりとりにLINEも使うことがあるから、絶望しているところである。しかも、LINEはデュアルSIMとかどーすんねん、という古色蒼然とした仕様のままだ。

そろそろiPhone7plusも半年超えそうだから、半年を超えたら、真っ先にSIMロック解除しちゃうぞ、と狙っているのだが、これで晴れてうちにあるスマホは全機種SIMフリーになるのだ。お祝いにいっぱいやりたいところだが、最近は全くお酒を飲まなくなったので、麦茶で一杯やろうかと考えている。

結局のところ、iPhoneもAndroidも今はそう変わるものではない。慣れの問題だから、どっちか迷っている人には、自分が使い慣れたほうがいいですよ、と教えることにしている。しかし、これからはじめてのスマホなんです、という方には、あくまでファッション的な(というか見栄ね)ファクターで、iPhoneのほうが見栄えがいいよ、と教えてあげている。研究者とかエンジニアとかの中身が気になる人種の場合は、Androidがアプリも多くていいですよ、と教える。

いまどきのスマホはなんでもいい。自分の好きなものでいいじゃないかい?Android vs iPhone論争は終わったな、という感じがするのだ。はっきり言う。そんなことはでうでもいい。

 


仕事のメインのコミュニケーションで電話を使う会社は潰れる

このところ、様々な方々とお話をするとき、連絡には電話、ってのはかなり少なくなった。理由は簡単だ。みんな忙しくなってきたから、電話ではコミュニケーションが取れないことが多くなってきて、仕事に支障をきたすのだ。要するに電話が届かない。仕方がないの出かけ直す。その時間がもったいない。

だから、仕事などでのコミュニケーション手段が電話の時代で止まっている人はとても厄介だ。日本では高齢者にはこういう人はとても多い。私も、今はメールや、国を超える場合はFacebookメッセンジャーを主に使っている。電話はそれを受ける人の時間をア・プリオリに奪うので効率が悪い、ということに思いが至らない中高年が多すぎる。今のように世の中全体がそんなに忙しくなかった時代であればそれでも良かったのかもしれないが、電話が取れない状況も多いのが現代という時代だ。相手のことを考えるのであれば、わずかな仕事内のお互いの空いた時間にしっかりとコミュニケーションを取ることができる、メールとかメッセンジャーがいいとぼくは思うんだな。みんなそんなにヒマじゃないんだよ。

電話でのコミュニケーションがいい、というのは、プレイヤー全員が同時に舞台の上にいる必要がある、という牧歌的でスローで豊かだった時代の非効率でも仕事がなんとかなった時代の残渣であろう。今は一人一人が有機的にジグソーパズルのように余裕がなく組み合わさったスケージュールをこなして仕事を構成していかないと、とてもじゃないが食えない時代だ。これを肌で感じている現代のビジネスマンはコミュニケーションでは電話を遠慮する。忙しい相手のことを考えるからだ。

人間的に濃密な関係が仕事を作るというのが真実であるにしても、それは完全には達成できないのも事実だ。であれば、前なら電話を使う場面でこそ、まともに電話をすることは減っていく。電話でないとダメという人は要するに現代のビジネスの現場からはじき出されているのだ

現代の忙しいビジネスマンには電話はつながらない。電話がつながるのは仕事がなくてヒマだからだ

今はそういう時代になったのだね。

 


「フェイク」の時代

ツタヤが運営委託されている、公共図書館の書籍が「フェイク」であった、というニュースがあちこちで取り上げられている。しかも、その「読めない本」は、書棚の飾りとして、税金で購入したということで、多くの批判が集まっている。

また、最近は、北朝鮮の核兵器の日本本土攻撃の話などは一部では「フェイクだ」と言われていたり、あるいは、それ以外にも「フェイクのニュース」というのがあちこちである、ということが指摘されており、インターネットはほとんどこの話題ばかりだ。

ちょっと前には、米国の新大統領になったトランプ氏が「フェイクのニュースばかり」と、既存のマスコミを批判した。

いずれにしても、今年の流行語には「フェイク」ってのは、少なからず入るんじゃないか、というくらいの勢いである。

一方で、政治家が不倫したとか、あるいは政治家周辺の人たちが、本当のことを語らないとか、今までは見逃されてきた政治や政治家、官僚のウソが、ことさら取りざたされるようになってきた。かつては政治家自身が「政治家に徳目を求めるのは八百屋に行って魚をくれ、というようなもの」などと言って、大事になったこともあったものだが、時代は変わった。

大きな声では言わないが、人々は既に「ウソを言う人は平気で言うものだ」ということが、身にしみてわかってきて、半ば諦めている、というのが本当のところだろう。こうなると、書籍がフェイクであったなんて「あぁ、そういうこともあるんでしょうね」という「あきらめの境地」になってしまうものなのだろう。

しかし、この時代に紙の本の話である。古色蒼然の議論のような気もする。

「あそこの高いところにある、パンセが読みたいんですが」
「あ、あれは背表紙だけで、本物はこちらのデジタルネットワークで読んでください」

せっかくなので、これを機会に、こういったこともして良いのではないだろうか?と思ったりする。フェイクではなく、形だけ本の形をさせておいて、本の実態はデジタルデータとして、ちゃんと図書館はその役割を果たす、という、そういうものがいいんじゃないだろうか?本を置く場所も取らず、本にシミがつくこともなく、「知の殿堂」の役目を、図書館は果たすべきだろう。だから、書棚の本はフェイクでもいい。デジタルデータのアーカイブで、それがいつでも誰でも読める、ということが大切なことなのではないかと思う。

 


「こりゃダメだ」というIoTのお話

なんというか、最近はIoTでなにができるか?ということを考えるときに、開発者が自分で「ああでもない、こうでもない」と考えるのが流行っているのだろうか?実際、ここに使ったら、いいですよ、という提案をするとき、独りよがりなものを多く見る。たとえば、地域の老人向け・買い物難民向けのシステムとかを考えた、というのだが、そのアイデアを考えた元のサンプルとなる例は「うちのおばあちゃん」だけだったりする。そして、自分の考えたことに固執するあまり、他の会社や人が考えたもっと良いシステムに目が行かない。「なんだ、自分の考えたものでなくてもいいや」と感じたとき、そちらにスイッチを切り替えることができない。自分で考えて自分で作って、自分で成功させる、と考えて、その考えから出ないから、当然、ひとりよがりなものになってしまい「成功」からは当然遠ざかる。そして、そういう場所にいる自覚がない。

目的は「高齢者の買い物難民救済」であることが忘れられ、自分のシステムを世に出すことだけが目的になっている。言い換えれば、「買い物難民」は、そのためのダシである。本当の買い物難民その人にとっては、いい迷惑である。そんなシステムは当然、誰にも使われない。いくら良いものだったとしても、その元にある動機がそういうことであれば、「その手に乗るかい」ってことになる。人間ってのは、そういう動物なんですよね。そして、そういうシステムは机上では考えつかない欠陥がどうしても出て来る。現場に行って調べないで自分の頭のなかでだけ作った世界の中で、自分が考えている老人像や買い物像というものばかりで世の中の仕組みを組み立てて考えているからだ。

私が見た例では、介護施設のシステムがある。システムを作った人は、介護施設では身体の動かない人ばかりがいる、というふうに考えてシステムを作る。ところがどっこい、身体は非常に健康だが、認知症で手がつけられない、という人もいるのだ、ということが忘れられ、その健康ゆえに施設から逃亡する、という人もいることが忘れられている。しかし、現場で見たその「事実」には目を向けず、ひたすら自分のシステムを作って「お客様」に渡す。結局、そのシステムは使われない、なんてこともあった。特に、介護施設では食事は非常に健康に気をつけて作られているので、入所したときは健康状態が悪かったが、入所してから急激に改善してしまって、介護施設から出ていく、って人もいたりする。「自分が考えたシステムから外れる人」は、見なかったことにして、システムを作る。結果は無残なものだ。

そういう「施設から逃亡する入所者」は、やはり自分勝手な人も多く、けっこうよくものごとを知っている。よく「その人がどこにいるかわかるようにするために、首から無線で位置情報が取れるカード機器をつけるといいんじゃないか?」なんて提案する人もいるが、そういう人に限って、「こんなものいらない」と、首から下げているものや手首や足首についている、GPSの無線通信機は勝手に取り外す。それが着ている服について外せないものであれば、その服を脱いで別の服を着て逃亡の実行に及ぶ人もいる。これが現実だ。

物事をお金と機能だけ、システムだけで考えると、うまくいかない。人間には感情があり、その感情が「見える」ものなのだ。そして人間は意外な行動するものだ。そして、自分が想定した意外なシステム利用者の行動を見たとき、その現実を受け入れる柔軟な頭がないと、いつまでたっても、そういう場所で使ってくれるシステムが出来上がらない。そういうものなのだ。

世の中がおかしいのだ、というのは簡単だ。必要なのは、そういう世の中にあって、自分をいかに変えていけるか、だ。システム開発というのは、そういう仕事なのである。

これはどんなシステムにも言えるのではないだろうか?

 


製造業のIoTの現在

「これからは製造業のIoTだ!」「インダストリー4.0だ!」という声が大きく聞こえる。これまでは製造業は工員さんの個々の技量に頼った「モノ作り」であり、ITのかまびすしい昨今においても、コンピュータの機器もネットワークもほとんど存在せず、縄文時代もかくやと思わせる手作業で全ての作業をおこなっていたのだから、IoTの製造業への応用は、大きな市場になる。

-んなわけない。

毎度言うようだが、25年前、私が関わった某東証一部上場の大企業の工場では、自社製のロボットがこれでもかというくらい投入されており、工場の建屋や工場の中を縦横に走り回り、工具や資材を運んでいた。私がそのロボットの前に足を出しただけで、センサーがそれを感知し、ロボットはピタッと止まって、私が通りすぎて安全なところに行くまで、しっかりと待ってくれていた。しかも、工場内のどこにどのロボットがいて、どういう動きをしているかは、中央の事務所で全部リアルタイムに把握できた。自律で動くだけではなく、無線データ通信が使われていた。

さらに、世界各国に散らばる会社の工場どうしをデータ通信で結び、世界的な製造調整を行うなど、当たり前だった。今でもそのシステムは動いているはずだ。

繰り返すが、25年前である。こういう風景が25年前から、大手製造業では当たり前であった。

当然のことながら、今とは桁が違うお金がかかっていた。そういうところには当然、大手のIT企業(当時はITという言葉はなかったが)がしっかり食い込んでいる、なんてのは当たり前だった。

現在、製造業の世界ネットワーク化とか、完全自動化は、米国ロックウェル(Rockwell)、ドイツ・シーメンス(SIEMENS)、三菱、Panasonicが大きな市場を握っている。Rockwell社は、そのネットワークシステム部分を米国Cisco社がOEM供給しており、信頼性の高さで定評がある。大きなお金の匂いのするところには、もう既にIT業界の巨大プレイヤーがいるのである。当然のことながら、それは日本でも事情は同じだ。これはビッグプレイヤーと多くの仕事をしてきた人間には当たり前のことだ。

現代における「製造業のIoT」のメインターゲットは、これまでITにあまりお金をかけられなかった中小企業である。