Webサイトのリニューアルや会社のネットワークのリニューアルにはセキュリティに気をつけて

このところ、ニュースだけではなく、私の周辺のあちこちで、インターネットからの侵入者を防ぎ切れず、会社で扱っているお客様のメールアドレスや社員のメールアドレスが流出したらしい、とか、そういう話を聴くことが非常に増えた。実際、私の運営しているサイトでネット経由で来る外部からの「攻撃」や「攻撃の予備行動」とみられるアクセスはこの半年で急激に増えてきた。

攻撃はどこから来るかというと、日本国外がとても多く、いろいろな国からまんべんなく来ているように見える。

ぼくの仕事の大きな部分も、このセキュリティに関わるもののご相談が増えつつある。日本では経済産業省も、新しい法律を作り、これに国のレベルで対抗をすることを考え始めている。

自分の本職といえばそうなのだが、怖い世の中になってきたものだ、というのが実感だ。

 


スマホもPCも発達は止まって久しい

たとえば、2007年に初代のiPhoneが登場したとき、ぼくらはその機能に驚愕はしなかった。日本ではもちろんガラケー全盛だったが、腕時計型の携帯電話もあったし、Eメールができる携帯もあった。タッチパネルが少々新しいくらいで、機能としては、なんでもできた。日本の場合、問題は「法規制」とか「キャリアの規制」であって、これは今まで変化しつつも尾を引いていて、日本で売られているスマホはけっこう窮屈だ。

当時のAppleでは、音楽プレイヤーのiPodがあって、これに電話機能とタッチパネルをつけた、ということだったので、あまり驚きはなかった。タッチパネルも新しい技術ではないから、「そりゃ、組み合わせればできるよね」とぼくらは思っていた。テクノロジーに疎い人たちだけが、大騒ぎしていた記憶がある。

CPUのコアの数は、2007年当時から変わって、今はQuad-Coreが主流だが、ここ3年間、あまり変化はない。AndroidもiOSもバージョンが新しくなるが、結局のところすごく進化した感じがない。PCのほうは安定していたWindowsXPが数年の寿命で、その後混乱のVistaになり、7→8→8.1→10となったが、ユーザーに隠された部分が多くなり、クラウドも多用されたものの、すごく革新的な進歩はないように感じられる。MacOSも進化しつつある、というものの、進化の度合いは似たり寄ったりだ。この間、米国では安価なChromebookがMacよりも売れるように成長したが、この波は日本の業界の事情もあって、日本にはまだ来ていない。Chromebookは日本円で2万円前後からあり、ムービーの編集をするなどの重い処理がなければ、これで十分、というスペック。なによりもこの低価格が魅力だ。

思い出すと、この4年くらいだろうか?2010年を超えたあたりから、PCもタブレットもスマホも「これはすごい!」と大声を出したくなるような「革新」がない、と私は感じている。

今年のCESで大繁盛だったAmazonのAlexaの音声認識も、目新しい技術ではない。人工知能もずいぶん古いキーワードが出てきたなぁ、と思ったし、IoTも、ぼくらは30年前からやっていて「今さら名前をつけられてもなぁ」くらいに思ったものだ。

テクノロジーの世の中は確実にここ数年、技術革新がスローダウンした、と私は感じている。「もっとスピードを!」「もっと創造力を!」と思う。

 


元在韓日本大使の「韓国人に生まれなくて良かった」

「ダイヤモンド」に掲載された、元駐韓大使の「韓国人に生まれなくて良かった」という記事がここ数日、日本のネットなどで話題になっている。韓国側からは朝鮮日報日本語版でこの記事が話題になったことについて、韓国での反応などが記事となっている(日本語)。日本のテレビニュースで韓国の話題が出るときは「このところ悪化している日韓関係ですが」というマクラが必ず言われる。一方で日本政府の国土交通省・観光局(JINTO)の発表したレポートを読むと、韓国から日本への観光客は過去最高、500万人を超えているだけでなく、前年比でも20%以上の増加傾向であることがわかる。また、逆に、日本から韓国への観光客も増えている、という報道もあった(日本語)。これらのリンクは韓国のメディアのものでも、すべて日本語のものだが、要するに、テレビや新聞であれこれ言われているものはあまりあてにならない、ということなんではないだろうか?

最近、なんだか日本国内のメディアで言われていること、取り上げられているニュース、その取り上げられ方が今ひとつ偏っているように思うのは私だけだろうか?

私の周辺では「韓国については昔は印象が良かったが、最近は悪くなった」という日本人が増えている。実際に韓国に行ってみると、以前とはあまり変わらないし、景気は日本で言われているほど悪くなく、むしろ良い。私は3年前に韓国で大学教授をしていたとき、韓国の大都市でミュージカル「CATS」を見た。ブロードウェイの本場のCATSだ。韓国じゅうを公演している、とのことだったが、後ろから三番目くらいの席だったにも関わらず、チケットはかなり高額で、日本円にすると2万円近かった。ということは、前の席はおそらく5万円級のところもあったのではないか?と想像している。1200名が入る1階と2階の客席は満員だった。いや、まさか本場ブロードウェイのCATSを韓国で見ることになるとは思わなかった。客がお金を払うから、公演が成立するのだ。街を見渡すと、景気は日本よりも良いことに疑いはない。

いま、韓国では、週末ともなると、家族連れで都市部の巨大デパートや巨大ショッピングセンターにクルマで乗り付け、駐車場にクルマを入れると、家族分の服をユニクロで買う。そして、家族でデパートのレストランで食事。食事の後は、屋上のおしゃれなカフェ(スタバとか)でのみものを飲んで帰宅する。毎週末である。そういう生活をする人がかなり多いのだ。貧富の差はあるが、働き盛りの人はそういう家族生活をしている。なお、韓国のスタバは世界一高い、ということで一時有名になった。

冒頭の話に戻ると、日本人として私が過ごした韓国というところは、「そこまでひどく言うかなぁ」と思うことが多い。強いて言えば、日本の社会と窮屈さはそんなに変わらないようにも思う。しかし、人間関係は非常にきつい社会であって、現代の日本人の多くは耐えられなくなることがあるだろうと思うし、私もそういう感じは持った。しかし、それでも韓国の人は韓国で生きていることを考えれば、それはあくまで「日本で生きてきた人が韓国を見た場合」の話であって、それ以外ではないのではないか?

この記事は日本人の「元駐韓大使」が書いた記事とされているから、大きな問題として韓国のマスコミでも取り上げられた。しかし、そこにはそこで生きている人がいるのだ。それは地域が違う以上、国の政府が違い、社会生活が違う、という、そういうものなのではないか?であれば、今回問題となっている記事はあくまで「日本人から見た韓国」以外のものではなかろう。

日本人にも詐欺師もいれば悪党もいるし、高潔な人もいれば卑しい人もいる。韓国にだって「韓国人」という一枚岩の人たちがいるのではなく、様々な人がいるのだ。そういう想像力が、やはり国をまたいだ話題の場合は必要なのではないか。たとえば、ニューギニアの奥地の原住民に「コンビニなくて生活がたいへんでしょう」とは言えないし、ロンドンで「食事が不味くて住んでいていやになるでしょう」とは言えないし、砂漠地帯に住む人に「水を運ぶのが大変だから、日本人はそこで暮らせない」と言ったところで「では、自分の国で生きていればいいんじゃないですか?」と言われるだけだろう、と思うからだ。

私たち日本人も、米国人に「天皇制なんて古い世界のものがあるなんて大変でしょう。やめたら?」なんて言われたら、「あなたの国とは違うんです」と言いたくなる人も多くいる。地域の違いとは文化の違いであり、社会の違いであり、それ以上のものでも、以下のものでもない。

人間は生まれてくるところを選べない。そこに適応して生きて行くしかない。それぞれが、それぞれに。そして、「国際化」というのは、そういう他の地域や国で生活する人への想像力をしっかりと持てるようにすることなんじゃないだろうか?

 


「知性」「教養」とはなにか

米国はトランプ大統領の登場で「知性と教養ごっこ」が終わった。世界的にそういう時期になったんだろう。

たしか、弥生時代くらい昔に「ゲーム脳」ってのが流行って、そして今はその同じ方が「スマホ脳」て言ってるらしいから笑っちゃうんだけれども、若年層や若者の「コミュニケーション機器依存」というのは、ぼくが若い頃もあって、ぼくはアマチュア無線にハマっていて、そのために高校の英語で赤点取った覚えがある。その後、まさか韓国の大学教授になって、英語でものを教えていたわけだから、学校の英語なんていかにあてにならないかがわかる。

まぁ、それはともかく、2000年を超えると、若者が深夜のコンビニにたむろしている、などというのが話題になったこともあった。芥川龍之介は「なにか面白いことはないか?というのは不吉な言葉だ」と喝破している。若者が群れ集う。それは昔からあることで、その群れ集った若者は、大人の世界を壊していくこともある。

若年層は社会の中での役目がまだ定まっていないため、社会における自分の生きる位置がはっきりしていない。そのため、社会的な弱者というカテゴリーに入る。常に「強くならなければ生きて行けない」という切実な願望も強く、さらに社会参加というものへの渇望もある。未成年者の喫煙や飲酒なども、大人の世界への参加の願望がそうさせる、と言う説も昔からあった。であるから、若者は常に自分たちだけの集団を作って自己防衛をする志向が強い。

若年層にこういったことが昔からあるのは、こういった原理が人間の作る社会に存在しているからだ。その若年層の切実さに身を置ける大人はいない。自分の若い頃を思い出しても、違う経験しかないから、それが理解できないのだ。

最近の若者の無知や無教養を嘆く話は多いが、それは「知性や教養」といったものが、既に社会を構成している要ではなく、「かつて知性や教養を標榜していた人」がいても、実は大人の社会が「人のつながり」という目に見えないものでつながっていることを、若者が見抜いているからに過ぎない。「知性や教養」でかつて使われていた用語を隠語として、社会の中での自分の属している集団内のつながりを確認する作業に大人は忙しい。その大人を見て若い人間は無意識に思っている:「なんだ、知性や教養なんて、所詮は仲間を確認するだけのためのものだったのか」と。そして続ける。「おれたちはどうしてくれるんだ」と。

 


「サイコパス」の研究

このところ、仕事などで当たる人に、「サイコパス」らしい、という人が何人かいた。そういう人の周囲からは、どんどん人がいなくなっていく。

考えてみれば「サイコパス」というのは荒涼とした精神世界しか持てなかった、という意味でやはり「可哀想」なんだな、とぼくは思うよ。自覚が全くされない、精神的な「欠陥」があるんだな。生まれつきの身体的な欠陥とか、そういう障害を持って生まれた人に、サイコパスが多いのは、自分の欠陥によって、精神的に大きなダメージを受けたトラウマがそうさせていることもある。その人が他人の優しさや情に反応して変わることは永久にないのはわかるし、できればつきあわないほうがいい、という判断になるのは、しょうがないところがある。こちらも社会生活を続けて行かなければならないからね。

でも、国とか自治体の行政などの制度で、そういう人を救うことは、それでも必要なんだと思うのね。サイコパスでも泥棒でも、人間は人間だからね。情がこもっていない反応しかなくても、それでいい、ということをしないと、行政そのものが「サイコパス」という「病」に陥ってしまう。それでは、いざというときの行政の役目が果たせないしね。それが国とか行政に必要な「無償の情の表現」でなければならなくて、それがあって行政と言うわけでもあるんだな。

たとえば「欠陥のあるその人」には、母親もいるだろう。親戚もいるだろう。本人には自覚がなくて、死ぬまでその病気の自覚がないから、わからないので、母親も含め、周りはそんなことは本人に一切言わないが、本人は「サイコパス」という精神的な「障害」なんだね。そういう子供を抱えることになった親、という立場になったらどう思うだろう。いや、きっとそういう人は多くいる。母親はそれが自分のことではないけれども、血を分けた我が子である以上、情もわくだろう。しかし、その情は子供に届かないだろう。でも、できればなんとかしたい、と思うだろう。

それでも悲しんではいられない。返ってくることのない情を注ぐのには理由はない。ただ愛おしいからそうするのだ。それが外から見たときに悲劇に見えたとしても、そうするほか、周囲の人間にはできることもないし、することもない。届かない気持ちを持つこともまた、人間として生まれたがゆえの生き様の一部であって、それを恥じることも、いやがることもない。

「精神病質」の1つである「サイコパス」は、なによりも本人の自覚がない、という一点において、いろいろな意味で厄介なことを周囲に生じさせるのだが、一般社会とは違う精神世界に住んでいる、という自覚がない本人は、結果として不自由な社会生活を余儀なくされても、当然、自覚がないのだから、改善ということもできない。

「サイコパス」の問題とは、実は我々が生きる社会全体の問題である、ということは、以上の理由によるんだな。人間という不可解なものが、そのまま目の前に現実としてある。それが「サイコパス」でもあると思うんだね。解決できない問題かもしれないが、納得はしないと先に進めない。

 


IoTで困ること

Linux-Foundationでのライナスの発言。ああだこうだ言ってないで、手を動かせ、技術を手に入れろ!ってことなんだな。ハイテクをお金にすることだけ考えていて、技術やその背景にある文化についての興味はない、という人が、結局は多いのだ。それが世間というものだしね。だから、ITの技術について訳知りに話す人はいくらでもいても、実際に動かせる人間は非常に少ない。

これは昔からそうなんだが、それにしても、私達がIoTのハシリみたいなことをやっていた時期に比べれば、それをやっている人は今は多いだろう、とも思う。しかし、社会のニーズに完全に応えられるだけの人数はやはり足りないのはしょうがないんだろうね。

IoTで困ることは、そういう「困った人たち」に会って話をするときに、こちらのコストについてはまるで語られないことなんだね。最小のコストで情報と利益は手に入れたい、という人たちだから、ぼくらのように「実際に作る人」のことはほとんど考えない「サイコパス」っぽい人が多いんですよね。お金が潤沢に回っていた時代には、それでもなんとかなっていた。でも、今は違うから、いろいろやり方を変えていかなければならないんだね。

「IoTで困ったこと」ってのはいっぱいあるんだが、一番困るのは、コストも考えずに、「あれもできる、これもできる」って言う人なんだな。

 


IoTと報道

IoTについては、いろいろと新しいお話があって、ご相談も受けているのだが、元気のいいのは日本国内ではなく、外国がらみ、というものがかなり多い。加えて、「外国」といっても、アジア関係がやはり多いのは、このご時勢では当たり前だ。アジアでは日本が一番、という時代ではなくなった。

私が新聞を作っていた時代には、弱小零細新聞であったために、とにかくできるだけ速い報道を心がけた。大手の報道機関では組織ががっちりしすぎていて、外に出す情報はさまざまな社内の人の手を通るのでとにかく遅く、その遅さが読者の不満をもたらしている、と考えたからだ。なにも重大な事件ではなくとも「昨日あった有意義なセミナーの記事がなぜ今日出ないのか?」という疑問は前からあった。大きな報道機関であれば、組織的な問題で報道の遅延が発生し、小さな報道機関では人がいなくて手が回らないため、遅延が発生する。やはり不正確な情報はちゃんと裏取りをして、正確な情報にする必要があるのは言うまでもない。

しかし、ICTのこの時代、私はその報道機関のBLOGを活用した。まず、現場の取材にはビデオとカメラの両方を持っていき、PCも持っていった(三脚も含め、機材の重量は8kgくらいになった – これでも十分に軽いはずだ)。そのファクトが始まりそうだ、という時点を狙って取材に行くところまでは今までの報道機関とは変わらない。現場で取材しつつ、メモを取るのではなく、直接PCでオンランでBLOGに原稿を書く。速報性のあるものはとにかく短く、数行でもいい。「早く表に出すこと」が、他の報道機関とは一線を画したものにしたかったからだ。

「スピード」「正確さ」。この2つを自分の報道の大きな目標に掲げ、現場で、ときにはそのファクトが終わる寸前に写真を含めたニュースをBLOGに上げた。ビジュアルは大事である。どんなヘボ写真でも1枚あるとないとでは大きな違いだ。当然だが、どこよりも速い報道になる。これが多くの他の報道機関にも注目されたこともあった。まぁ、一番速いから、パクられたこともあったけれども。後で問題がある記述が見つかったら、躊躇なく修正する。修正が大幅な場合や重大な事項の場合は必ず「お詫び」を入れておく。これもまた、報道の重要な記録になるだけでなく、それ自信が報道の正確さを担保する。そして、それ自信が報道である。

また、BLOG記事の「誤り」はなぜそれが起きたかを、後でもいいのでちゃんと追求しておく。それもまた記事になる。コラムでもいい。

そこでは毎月1回、紙の紙面を作るのだが、BLOGで上げた記事を集積していた。それは「毎月のダイジェスト」みたいな感じになった。結果として、BLOGの速報がデイリーならぬ「Hourly」の詳報になり、紙の紙面はその月刊ダイジェストのようになった。主従が逆転したのを感じた。

やがて、リアルタイムのツイキャスやリアルタイムのライブビデオストリーミングの時代が来たし、アマチュアでも「生のデータなら」それを報道できる時代になった。時代が変わった。しかし、「スピード」だけでなく「正確さ」「取材」「論点の整理」。そのノウハウは明らかにアマチュアのこれらのものでは「現場の雰囲気を伝える」のみにとどまる。ここに報道のみならず教養の差が出る。基礎を知る第三者の目が明確にあって、はじめて「まともな報道」になるのではないか?と私は考えた。しかも、現代は「速く」つたえなければ意味がない。

IoTの技術は、現場の温度や湿度、天気や放射線の量、記者の血圧や脈拍、そういったものを逐一遠隔地から伝える。現場の緊迫感はそういうもので取ることができる。デスクで知りたい現場の様子は、原稿を現場で書きながらでも、スマホで本社とやりとりができる。徹底的なハイテク武装での報道は「速さ」と「正確さ」のためにあるものだ、と言うのが、そのときの私の結論だった。報道は人間から人間に発せられるメッセージの1つである。である以上、現場に居る記者の健康状態も重要な情報になる。IoTでの報道は新しいコミュニケーションの可能性を持っている。

2008年から2011年。ぼくはそんな報道の現場にいた。今もまだ、その「大目標」は生きているだろう。