ITの目的は「効率化」。しかし効率化でない場合は「新事業開拓」。

AKIHABARA

ITの目的は基本的に「効率化」である。たとえば、ある工場でコップを作っているとすると、人手+工作機械では1時間に100個作れる。しかし、「人手+工作機械+IoT」では、1時間に1千個作れる。だから10倍売れる、というようなものだ。数字はもちろん作るものや業種によってまちまちだが、基本はそういうことだ。これはセールスでも言える。「X日間に客まわりをY件して、Z個の商品が売れた」状態を、+メールその他のマーケティングをすることによって、Z+α個の商品が売れる。もちろん、これは、かけた投資と得られるリターンの差が大きければ大きいほど良いわけだが、IT/IoTの本質というのは、基本的にこういうものだ。

「ITでこれまで考えられなかった新規事業を起こす」のも、「全く違う事業ができる」場合と「効率化によって新たな利益が生まれる」という2つの場合がある。また、「効率化によって新たな事業が生まれる」場合もその新利益分を切り離して違う事業にして、「新事業」と称している場合も多いわけだが、このあたりは切り分けて考えるようにするべきだろう。

「効率化」を行っていない企業と「効率化」を行っている企業では業績に差が出て当然である。それはやがて埋めきれない差となって、「非効率な企業」を淘汰していく。これは「周辺の状況の変化」である。ゆえに、どこか一社が「効率化」を進めれば、他も追随して行かざるを得なくなるのだ。

一方、ITを使った「新事業」は、「ITがなければ事業として成立しなかったものを事業にする」ということだ。それは今まで「見たこともない」ものになるから、新しいものを事業として行うときは、「これまでの方法」は役に立たない。強いていえば、企業とは「お金」ですべてが評価される存在であるから、会計・経理の業務だけが、旧来からある体制を引き継ぐことができる。旧来の常識の範囲内にいる人にとっては、「なんだかわからないけど儲かっている」ということになる。

「旧来事業の効率化」なのか?それとも「新事業」なのか?

ここに、ITを使った事業の2つの大きな違いがある。「自分のやっている事業はこのどちらなのか?」は十分に意識して始める必要がある。

 


雑誌「GG」の炎上は現代の「道化」なのかもしれない、とか思うこと。

雑誌「GG」がネット上で燃えているらしい。聞けば「LEON」の雑誌を創刊した方が作った雑誌である、という。お名前は忘れたが(リンクの記事に書いてある。「岸田一郎」さんである、という。ぼくは面識はないが)、まぁ、そういうこともあるかいな、とは思う。雑誌は売れてナンボである。それが炎上にしろなんにしろ、売れればいいですよね。

ぼくもおそらく「GG」の読者になってもおかしくない世代の最後のほうではあるんだが、技術系でずっと来ていたこともあるんだろうとは思うが、正直なところ「ナンパがどうした」というのはまるで興味がないまま、この年齢になってしまったし、そういうことを勉強する必要があるとも思っていなかったし、今もそう思っていない。思えば20歳代、30歳代は仕事ばかりでそれどころじゃなかった。そういえば、同年代にそういうやつはいた、とは思う。でも、みんないなくなった。どこかに行ってしまったし、ぼくの目の前に一生現れることはもうないだろう。そして、それはそれで良かったのだ、と思っている。ただただ、品のない奴らばかりだった、とは思う。

今の20歳代、30歳代は明らかにぼくらのように「高度経済成長期」に自分の人生の成長期を重ねられた世代とはまるで違う感性がある。人間の社会は時代とともに変わる。たとえば、ぼくより以前だってそうだ。ぼくらの親の世代は第二次世界大戦・太平洋戦争での日本の敗戦を知っている。そのとき、子供だったぼくらの親たちは、敗戦の8月15日を過ぎたら、全くガラッと変わった大人の姿を見ている。ガラッと変わらざるを得なかった大人たちもまた「その時代を生きていくため」に変わったのだ、と、いう切実さがわかるのは、ぼくらの親が「親」になってからだっただろう。

人の社会はいつまでも同じではない。時間の経過とともに、どんどん変わっていく。様々な思惑と様々な力関係や人の関係が人間の社会を紡いでいく。世代の交代はいつでもある。この「GG」の炎上問題も、まぁ、そのたぐいだ。だから、一つだけ知っておきたいことはあるだろう。それは自分が今どんな時代のどこにいるのか?という自覚である。そうすれば、自分はなにをしなければならないか、が見えてくる。

そういう意味で言えば、かつての日本の高度経済成長期の男と女の関係をそのまま引きずって現代に表現したこの「時代遅れの編集者」は、むしろネットで叩かれまくる、自分が今という時代のチンケでバカを地で行く道化として生きることに、自分の生きる意義を見出している、宗教家のような人なのかもしれない。そこまで考えてはいないけれど、知らないうちに道化になっていて、その道化の人生を生きるしかなくなっているのかもしれない。この人を包んだ棺桶の蓋が閉まって100年後、もうそんなことはどうでも良くなっているだろう。いや、蓋が閉まって3分後には、もうそうなるだろう。誰でもがそうであるように。

私としては、そういう生き方は肯定も否定もできない。そういう人を笑う人もいていいし、笑われる人もいていいのだ、と思う。笑わない人もいていいし、どうでもいい、と思っている人も多いだろう。ぼく自身としても、どうでもいい。でも、こういう人がいると、ちょっとだけネットがざわついて、面白い、とは思う。

 


最近のPCはタブレット?

このところ、秋葉原の街を回っていると「タブレット+キーボード」というかたちのPCがたくさん出ている。価格も数万円くらいからあって、OSはWindowsを載せたものが多いが、まんまAndroidのタブレット、というものもまた多い。「タブレットとはスマートフォンの画面を大きくしたもの」とすると、さらにそれにキーボードをつけたものが、最近の「超薄型PC」である。WindowsもWindows10Sでタブレットとのシームレスな環境、というと聞こえはいいが、要するにクラウドに大きく依存した環境になるとアナウンスされている。つまり、本体に大きな位置を占めていたハードディスクは、小容量のフラッシュメモリを使ったストレージになり、低消費電力になるから、同じ大きさの電池でも数倍持つ。その代わり、常時ネット接続が必要で、ネットが切れると、全くなんにもできない、とは言わないが、かなり制約された動きしかできなくなる。とにかく「ネットありき」の環境であることは論を待たない

いずれにしても、世界的な不況であらゆるものが安くなっており、安いものが大量に売れる時代になった。また、安いものでないと、大量に売れない時代になった。

私は、2年前から、GoogleのChromebookを使うようになった。ビデオ編集などの「重い」処理以外であれば(Officeスイートを使うくらいなら)、これで充分だからだ。CPUは2年前でも強力とはいえないCeleronだし、メインメモリは2GB、ハードディスク代わりのフラッシュストレージは16GBしかない。しかし、背後にはネットで接続されたクラウドの環境がちゃんと揃っているため、ほとんどの業務はこれで充分だ。手元のPCに電力を食うものがないから、電池は11時間持つ。ちなみに、価格は秋葉原で中古のものを買い求めたので1万6千円。これでMicrosoftOfficeのファイルの読み書きなどは当たり前にできる。全てがChromeのブラウザの上のクラウド環境で動くのだ。LINEもある。Wi-Fiは2.4GHzに加えて5GHzも搭載しているが、有線LANコネクタはない。このあたりの「割り切り」でコストダウンが図られている。ASUSのC300Mというやつで、いささか古い。今はC300MAになっていて、メインメモリが4GBになっている。

このくらいの値段になると、外に持って歩くには重宝する。なによりも価格が安いので、壊したりしたときのダメージが少ない。とは言うものの、ストレージはフラッシュメモリなので、振動やショックには強く、よほどのことがないと壊れない。「使い捨て」とまではいかないが、それに近い感覚もある。

現実に、Chromebookは米国では大学生を中心によく売れており、Macbookよりも売れている。MicrosoftがSuefaceを出したのも、Windows10Sが出たのも、Chromebookと同じ道を辿り始めている、ということだ。時代はクラウドPC「クラウドブック」の時代である。Microsoftはより消費電力が低く高速で動くように、CPU をインテル系のCPUからARMでも動くようにWindows10をデザインしている(これはWindows7の頃から市販されているものがある)。ウィルスマルウエア対策はクラウドで行われるが、エンドユーザーでもネットから侵入するウィルスやマルウエア対策をちゃんとしないと、どんどんクラウド経由で周囲に広がっていく。最初はマルウエア対策はユーザーは感知する必要はない、という状況も、しばらくすると一変する可能性がある。ネットからの侵入対策は、実はこれからのセキュリティ対策の要になる。既にウィルス対策のソフトをPCにインストールする時代ではない。

PCはいよいよネットに依存し、ネットにつながらないと仕事さえできない。ネットがこれまで以上に重要なインフラになると同時に、端末側のPCは軽く薄くなるのが主流だ。

新しい時代のエンドユーザーコンピューティングは、クラウドという「集中管理の時代」を再び迎え、ネットはそれを大衆化している。クラウド時代の新たなコンピューティングが始まっている。

 


タブレットとスマートフォン

最近、というかここ2年くらいだが、まちなかでタブレットを使っている人の数が増えたように思っている。たしかにタブレットは安くなった。女性は片手で持てる大きさのものを電車の中で使うことが多いようだが、男性では比較的高齢者の使用が多く、コーヒーショップなどに持ってきて使っている。若いビジネスマンはやはりスマートフォンが多いようだが、これはいつも持って歩く、歩きながら使う、というシチュエーションが多いからだろう。

女性のタブレットの使い方を見ていると、スマートフォンの画面の大きくなったものを使っている感覚だ。それで必要になれば通話もする。だから、片手で支えて片手でスクリーンを触る。男性の高齢者はコーヒーショップのテーブルに置いて使っている。使っていることを他人に見せたい、なんて雰囲気もないではないが、要するにPCの代わり。男性のスーツを着た若いビジネスマンは、コーヒーショップではPCの表計算の画面をながめながら、電話をしていたりする。まぁ、妥当な使い方だなぁ、とは思う。見れば客まわりの合間にコーヒーショップで充電しながらPCで会社とやりとりしている。

私はもともとがIT業界だから、周辺でモバイルなんてまるでやっていなかった時代、1980年台終わりから1990年台に、高いノート型のPCをPHSの128kbpsなんていう速度の回線につなげて、あるいは、スマートフォンもなかった時代に携帯電話のお尻に通信用のケーブルをつなげて、モバイルをしていた。最初の頃は「モバイル」なんて言葉もなかった。すごくお金がかかったが、とにかくビジネスのスピードは出せた。しかし、コーヒーショップでコンセントのあるところは全く無かった。当然、まちなかのWi-Fiなんてものもなかった。携帯電話会社と特別なプロバイダ契約をして、電池が減るのを気にしながら「モバイル」をしていた。いろいろなコツなどもあって、私などはそれがわかっていたからいいが、そういうものを知らない人にはまず手が出なかった。

今はモバイルの通信が小はスマートフォンから、大はPCに至るまで、それが専門外の人にも容易にできるようになった。なによりも安い。

昔話はともかく、私もタブレットを数台持っているんだが、すぐに使わなくなることが多い。持って歩くのも、最初は「どうだ、いいだろー」てなもんで見せびらかし用なわけで、実際には夜寝る前にベッドで少々大きな画面でネットサーフィンくらいしか使うところはなくて、必然性がない。しかし、ベッドでのネットサーフィン用とは言うものの、30分も持っていると重くて手が痛くなる。そんなこんなで使わなくなり、数カ月もするとタブレットの電池が枯れるほどになって、充電をしっかりしないと動かなくなる。要するに、今は何もかもスマホ1台でなんとかなってしまうので、タブレットは中途半端でもって歩く必然がなくなってしまっている。「どう?この画面のとおりですよ」なんて、プレゼンのときに、プロジェクタなどを使うまでもない、あるいは使えない、少人数での打ち合わせのときなどにPCの画面を動かすのは面倒だから、という程度に使うことがあるが、逆に言えばそんな時以外は、あまりタブレットの必然性はない。

やがてタブレットは棚のこやしになる。実際、余り売れないらしくて、秋葉原でもタブレットの中古の値段はかなり低い。外に持ち歩きのPCの代わりに使うために、キーボードをつけて持って歩いても、使わなかったりするが、今やPCメーカーの新機種は「2-in-1」とか言って、タブレットにキーボードをつけたもの、ってことになっている。PCも高性能化してなかなか壊れず、売れなくなったいま、「新機種」はタブレット+キーボード、なんだが、それは売れていない市場への参入、って感じで、これがPCの起死回生の元になるとは、今ひとつ思えない。

IT機器。そろそろ「断舎利」の時期に入ってきた、と思う。が、それにつけても、IT機器なしでは人間は生きて行けない時代にもなった。

 


恵比寿にヘビを見た

いやもう、おどろきました。あとで画像を調べると、これはどうもアオダイショウらしい。体長1mは超えるくらいか。

時間は写真のタイムスタンプによれば2017年6月9日午前10時28分。場所は恵比寿駅近くの「恵比寿東公園(通称:タコ公園)」の端っこのゴミ箱の横。通りかかると、なぜかスズメが数羽、すごくうるさいので、その当たりを見たら、このヘビがいた。しばらく見ていたが、すぐにスマホでカメラに収めた。通りかかったおばさんに「ヘビがいますよ」と言うと、「あらぁ!どうしたらいいですかね?」というので、「できれば、すぐに近くの交番に言ってください」ってお願いした。現場で待っていたら、3人の警察官の方が来たが、そのときはゴミ箱の下なんかを探索したが、見つけられず。写真を見てもらった。「今度見つけたら、渋谷区に連絡してください」で、その場は終わった。

近くの保育園の園児らしき子供がたくさん来ていたので、そこにいる保母さんらしき人にも「ヘビがいるから、そこには近寄らないようにしてください」と教えた。

しかし、家に帰って写真を調べると、どうやらアオダイショウらしい。アオダイショウであれば、毒はない。ただし、噛まれる可能性はあるし、暖かくなってきて冬眠から出たところであれば、お腹を空かしているはずで、子どもたちが噛まれることもあるかもしれない。しかも、この公園は「渋谷区で唯一の児童福祉法における児童公園」だとのこと。子供は朝からたしかに多かった。であれば、なおさら、早く駆除したほうがいいだろう。と、渋谷区のホームページには、写真を添付してメールでアラームを送ろうと思ったのだが、どこにもメールアドレスがない。全くない。電話番号はあっても、メールアドレスがない区役所があるのである。この時代に。

ということで、その直後は移動することもあって、電話はできず。仕方なく、twitterとfacebookでアラームを出しておいた。

しかし、東京の山手線の内側、駅の近くという繁華街の公園でアオダイショウを見るとは思わなかった。あぁ、びっくりした。。。。

 


ネットでの「匿名・誹謗中傷合戦」の意味がなくなってきたこと

ぼくもかなりされたことがあるんだが、少し有名になると「個人攻撃」で「いわれなき誹謗中傷」を「匿名」で行う人間が増える。特に最近のように、政治状況が混乱しているときには、政治的な発言をする人が狙われる。これは前にも記事にした

逆に、そういうのが増えすぎたため、これらの「個人攻撃・いわれなき匿名の誹謗中傷」の「効果」が逆効果になり始めている。つまり「ネットで誹謗中傷を匿名で受けることは、実は「素晴らしいから誹謗中傷の対象になる」ということに変わりはじめているようにも思う。そういう場面が増えている。

ネットの世界での情報合戦が盛んになったのは、特に政治が関係しはじめた昨年くらいからだろうか?それ以前から、誹謗中傷はさんざんあったものの、「ネットの中」ばかりが多く、リアルな世界、そしてそのリアルな世界でちゃんとした対象への取材があった時代には、あまり気にすることもなかった。しかし、最近は、ネットの利用が広がり、政治も混乱し始めて来ているため、ネットでの人気などが実際のリアルな世界の「投票」という行動に大きく関係し始めた。そのため、ネットで「情報戦」が主戦場になりつつある、と言ってもよい。いや、日本ではようやくそうなってきた、というほうが正しいだろう。情報には「鮮度」というものがある。頻繁な匿名での誹謗中傷は「裏になにかある」ということを、情報を得る側らもわかってきて、情報をそのまま受け取るのではなく「なにか裏がある」と読むようになってきているのだ。

最近はそういう「誹謗中傷・情報合戦」の裏側を暴露するネット上の記事も増えてきた。

ネット利用者も賢くなってきた。確実に変わりつつあるのが感じられる。


セキュリティ対策の効果測定は不可能?

【転ばぬ先の杖】
たとえば、ここに、100%、PCや会社組織などのサイバーセキュリティを守ることのできる機器があったとして、それを採用した人や組織があったとして、その採用以前と以後はどういう変化があるのだろう?セキュリティ対策が非常に効果が高いのは、もちろん「対策」なのだから、事故が起きる前である。事故が起きる前から、事故になる種をなくす、あるいは減らすわけだ。しかも、従来から行っている業務に支障があってはならない。従って、対策前と後でシステムを使う人間には変わるところはなにもない。むしろ、そのための「対策」である。それは「転ばぬ先の杖」であって、サイバーセキュリティ対策は、目立った効果を見ることができないほど、完璧である、とも言える。「あぁ、今日も我が家は何事もなかった」が安心というものである以上、このことは当たり前とも言える。

【「転ばぬ先の杖」は転んだ時に必要性を深く感じるもの】
とは言うものの、先を見て行動ができる人間は少ない。優れた人、と言われる人ほど、先を見据えて現在の自分の行動を決定する。「普通の人」にはその行動の意味がわからない。「未来」という時間軸に対する想像力が働かないからだ。しかし、一度組織の存続に関わるほどの事故が起きると、「普通の人」もやっと気がつく。しかし、そのときでは既に遅いのは言うまでもない。それが防衛というものにかかわるような、国家存続に関わるものであれば、なおさら、「想像力の乏しい普通の人」に対する指導力が大きい必要がどうしても出てくる。言い換えれば、「大勢の反対を押し切って、事故に備える」ことが、組織の長には求められている。しかも、「事故」というのは「予期しないことが起きること」である。「予期できること」の大半は経験したことである。それは大勢の普通の人にもわかることだ。言い換えれば「危機」とは、「想像力の中でしか生まれないもの」であるから、「想像力の乏しい人には全くわからないもの」になる。だから、「想像力の乏しい人」が「大勢」であるので、「大勢の反対を押し切って想像力を働かせて、事前に対策をする」ことが必要になる。

【報われない仕事だが、誰かがやらなければならない】
結局、サイバーセキュリティ対策の仕事というのは「報われない仕事」である。「想像力」を目一杯働かせ、時間やお金、労力をかけて実行し、結果は「なにもないことが成功」なのだから。とは言うものの、誰かがやらなければならない。「想像力の働かない大勢なんか知らない。なんともでなれ」とは言えない。また、手抜きなどもできる仕事ではない。日本のことわざには「縁の下の力持ち」「転ばぬ先の杖」ということわざがある。

【戦争はサイバー戦争になるのだから】
この先の時代、地域政府どうしのみならず、グローバル化した企業なども巻き込んで「戦争」「騒乱」の時代になる気配がある。その混乱の中で、最も少ないコストで大きな影響があり、かつ後世(相手方占領後)になるべくコストがかからない「攻撃」は「サイバー攻撃」である。核による攻撃は多大なコストがかかるばかりでなく、相手方占領後に何十年もその土地が使えない、という意味で勝利側にも非常にコストパフォーマンスが悪い。細菌戦に至っては、占領後の復興に大きなコストがかかる。しかし、サイバー戦では、相手方へ最大のダメージを与えられるうえ、実施コストも低く、戦後の復興も容易である。これから、地域やグローバル組織の戦争は、明らかにサイバー空間に主戦場が移ると言われているのはそのためだ。相手地域の水道や電気、通信網などのインフラを止められたら、どうしようもないだろう。余談だが、そういう意味で言えば、外国製のサイバーセキュリティ機器は全く信用ができない。

【世界は次に向かって動き始める】
世界各地で起きる噴火や地震、米国トランプ政権の誕生。どれをとっても、大きな規模での変化と混沌が近いように、私には思える。人の争いごとも増えるだろう。世界が次の時代に向かって動き始めている感じがある。「想像力を働かせその時に備える」のは、それに気がついた人の使命でもあるのではないか。