Linuxで安全・安心。その理由

最近、ぼくはあまりWindowsを使う時間が減ってきた。もともとApple使いではないので、MacOSを使っているわけでもない。なにしろAppleものは機能に比べて値段がバカ高い。とてもじゃないが、そこまでの金持ちでは自分はない。今使っているのは、無料で手に入るOSであるUbuntu/Linuxだ。これのデスクトップ版をPCにインストールして使っている。OSは無料で、このサイトから手に入る。最初から日本語の設定ができている日本語版だ。Windows関係のサイトでは毎月のアップデートで「動かなくなった」などの報告が多数上がり、Windowsを使っている人たちに恐怖を与えている。なにせいまどきPCは「普通の道具」である。この道具が動かなくなっては、仕事ができない。それでもついこの前までWindows上でしか動かないソフトウエアを使っていたため、どうしてもWindowsでないとまずい場面があったから、最近はUbuntu/Linuxの入ったSSDと、Windowsの入ったSSDを取っ替えひっかえして使っていた。しかし、ここ数ヶ月、Ubuntu/LinuxのSSDがPCに入れたままになっている。ちょっと詳しい人は、Linuxの上に「仮想PC」を作って、その上にWindowsを載せている人もいる。自分の場合は、単純にSSDの物理的取り換えだ。

【Ubuntu/LinuxにはOfficeも無料でついてくる】
まず、PCといえばOfficeソフト(Officeスイート)の存在が大きい。Windowsであれば、表計算の「Excel」、ワードプロセッサの「Word」、それにプレゼンテーションの時に使う「PowerPoint」。LinuxのOfficeで最近良く使われるのは「LibreOffice」で、これはWindows版も無料で手に入る。しかし、Ubuntu/LinuxではOSのインストール時におまけでついてくる。しかもこのLibreOfficeはMicrosoft社のOfficeと使い方は少々違うものの、ファイル形式がMicrosoftの、.xlsx/.docx/pptxなども読んで、かつ書くことができる。できないのは、VBAくらいのもので、普通の使用であれば問題は全くない。しかも「無料」である。

【Windowsのソフトがそのまま動く】
また、「どうしてもWindowsのソフトを使っているので、それを使いたい」という場合も、これまた無料のソフトである「wine」を入れておけば、ちゃんと動く。私も、そういうやり方でいくつかのWindows用の便利なフリーソフトを使っている。当然ながら、Microsoft社のOfficeも動く。玉に瑕は、インストールと利用がまだ少々面倒なこと。これも、ネットにある豊富な情報でなんとかなる。

【ウィルス感染とは無縁】
WindowsやMacOSなどのメジャーなOSを狙った「ウィルス」「スパイウエア」は非常に多いが、それは世の中に広まっているから、という理由が大きい。Ubnutu/Linuxはまだ世の中にそれほど広まっていないから、ウィルスやスパイウエアはそんなにない。つまり感染しにくい。しかし、そうは言っても、心配の向きはあるだろう。でも、ここでも無料のウィルス対策ソフトウエアがある。これは、ネットで「Linux ウィルス対策」として検索すると、かなり多くの情報が手に入る。無料の対策ソフトもたくさんあるのがわかる。もっとも、これからのウィルスやスパイウエア対策はPCに対策ソフトを入れる、という方式ではなく、「UTM」というハードウエアを家庭や会社のインターネット接続口に入れておく、という対策を取ることが多くなるだろう。なぜかというと、家庭や会社ではPCのほか、各種OSのスマートフォン、タブレット、IoT家電と言われる洗濯機やエアコンなども接続されるから、これ全部にウィルス対策ソフトを入れることは不可能だからだ。つまり、これからは、ウィルス対策ソフトそのものが「時代遅れ」になる可能性が高いのだ。

【動画編集ソフトなどもLinux】
そして、私はよく動画の編集をするので、Windows上で動く優れた動画ソフトを使うために、Windowsを起動することが多かったのだが、探して見ると、なんと無料でかなり高機能な動画編集ソフトウエアも多く出ていることがわかった。これで、Windowsをわざわ使う意味がほとんどなくなった。結果として、我が家のPCはどんどんLinuxに変わってきて、Windowsはほとんど起動することはなくなった。

【さらに高機能を望むのであれば】
Ubuntu/Linuxには、さらに高機能の「有料ソフト」もある。たとえば、日本語かな漢字変換には、日本語処理の老舗とも言われているジャストシステムの「ATOK for Linux」もある。

【AdbeもLinuxはじめました
たとえば、出版とかWebページデザインとか写真とかの仕事で、adbe社のシステムをどうしても使う必要があり、それはWindowsでしか動かないと思っていると、そうではない。adbeも本格的に adbe ccなどをLinuxで動くものにし始めている。

【それでもどうしてもWindowsがー、がががが】
世界中のシステムがLinux対応になりつつあって、それでも、過去に使った開発の終わった便利なソフトをどうしても、Linuxで使いたい、という場合は、先ほどご紹介した「wine」を使うか、Linux上に仮想化したPCを置き、そこにWindowsをインストールする、という手もある。現在その設定は技術者でないと面倒だが、これも早晩解決する。簡単になるように改良が始まっているのだ。

【知ったかぶりのITオジサンに気をつけよう】
IT機器に詳しい、とか言われているオジサン。某巨大企業に勤めていて、カフェでも居酒屋でも昔の自慢話ばかり。で、おれはITには強いんだぁ、などとくだを巻くおじさんに限って、日進月歩のITの世界はご存じない。実際に毎日触っていても、古いものばかり触っていては意味がないのは当たり前。で、こういうオジサンに「Linuxってどうなんですかねぇ?」などと聞いてはいけない。そのオジサンは、数年前にちょっとだけLinuxに触った知識を元に「そんなの使えませんよ。手を出さないほうがいいです」とか言う。が、その数年のあいだに、実は劇的な進歩があるので、そのオジサンの知識は使えないのだ。こういうオジサンにIT関連の物事を聞く必要は、あまりない、と言っていい。Linux普及の一番の阻害要因はこういった「知ったかぶり退職ITオジサン」なのかもしれない、などと最近は思うのだが。

ということで、このBLOGもUbuntu/LinuxのデスクトップOSで書いている。Linuxで物理的なハードウエア以外は、なにもかも「完全無料」でなんとかなってしまう、という時代がやってきた。OSも完全無料、というのは、実は大きなメリットがある。WindowsのようにWindowsUpdateなどで全く動かなくなってしまったPCも、Ubuntuであれば、生き返らせることが無料で、かつ容易だ、ということ。そして、元が無料だから、OSがクラッシュしたりおかしくなっても、再インストールには躊躇がない、ということだ。とは言うものの、私の場合は、OSがクラッシュしたりしたことは今までLinuxでは全くない。

既に、欧州や日本の一部では、地方自治体の役所などでLinuxを使う流れも出てきている。Windowsに縛られる時代ではない時代が目の前にひらけてきている。

 


ハッカソンでの知財の扱い

 

このところ、あちこちで行われている「IoT関係ハッカソン(アイデアソン)」は、様々なものが出たり消えたり、なかなか盛況だ。よく見てみると、入賞者などはハッカソンごとにだいたい固定化してきているのがわかる。なんでもありの面白さ、みたいなのは、だんだん少なくなってきている。聞いたところによれば「内輪のサークルのイベント」化してきているものもある、と聞いている。

実際、そういうイベントに出ている「アイデアを実現したもの」には、私が見るところでは、あまり魅力的なものが見つからない。みなどこかで見たような「遠隔地の親の見守り装置」みたいなものがあまりに多く、どちらかというとそういう狭い範囲内での少しの差を競っている程度の「アイデア」ばかりがあるように見える。ある意味、停滞しているのだろう。

加えて、多くのハッカソンは、自治体などの公共機関が行うものも含めて、その成果物の「知財(特許、工業所有権など)」が、どのように扱われるのか?などが、ちゃんと表にしっかり書かれているものは非常に少ない。つまり、ハッカソンに出て優勝したら(あるいは入賞したら)、その成果物と同じものを自分が作ったら、どうなるのか?みたいなことがまるでわからない、という、そういうイベントが非常に多いのだ。

さらに、IoT関係のハッカソンではごく短い時間での開発競争になるという面があり、出来上がったものは、セキュリティなどは一切考えられていないものがどうしても多くなるのは仕方なく、結局、そのままでは製品にも事業にもならない。さらに膨大な手間をかけて、セキュリティやクラウドの仕組みを構築したり、アクセスが集中したときのラッシュ時の動作検証なども、製品化には必要になる。アイデアだけで勝負、というのは、実は勝負にもなっていない。

これでは、まじめに世の中に商品として出そうとしているIoT機器というのは、怖くて怖くて、ハッカソンには出せない。

あるいは、あらかじめ、特許出願したうえ、こういうハッカソンに出る、というやり方が本当は良いのかもしれない。

 


サイバー戦争が始まった(21) USB充電ソケット

Ikebukuro / Tokyo

Ikebukuro / Tokyo

※本記事はフィクションです。事実ではありません。
※本記事はこの本の続編です。他のストーリーはこちらでお読みください。

あぁ、今日も雨か。私は雨の中の出勤。ビルの森の中を歩きくたびれていた。役所の仕事だが、今後の日本の政府としての世界戦略を作るのに、要人の間を飛び回っていたのだ。インタビューはそれぞれが気を抜けず、長時間に及ぶ。「要人」とは言っても、世間から見れば有名ではない官僚や政治家もいる。私はあるシンクタンクに勤めていて、そういうレポートを作る役割なのだ。企業相手のものは、別の人間が担当し、私は政府の「要人」に、普段は表に出ないような重要な外交や財務に関する将来についての戦略情報を聞きまわる役目だ。そのインタビューの内容を委細漏らさず上司に報告すると、上司は他の企業関係の情報をとってきたメンバーの持ってきた情報に目を通し、レポート全体の内容を決め、私達にまたそれぞれのパートの執筆依頼が来る。

そうやってまとめられた私達のレポートは非常に高い値段で、インタビュー先の役所や企業が買う。一冊が数百万円、というものもある。しかし、役所側はこのレポートで企業側の動きを知り、連携を持ちかける。逆に、企業側はこのレポートを読んで役所の意向を知り、国全体としての戦略の統一性の中に、自らの「商機」を見出す。シンクタンク、特に政府系のそれというのは、レポートを通して、日本の国家の統一を図り、将来に向けての戦略を合意するような大切な役目を負っている。レポートには「将来見通し」などの章もあり、ここに、日本の将来が書かれている、と言っても過言ではない。

集中した長時間に渡るインタビューの内容は、手元のスマホの中に録音データとして入っている。今回のレポートの要となるのは「覆面座談会」だ。それぞれの個人名は出さず、それぞれが今なにをしているかが赤裸々に語られている。外務省と財務省に加え、今回は防衛省の要人もこの座談会に加わった。座談会形式にすると、個々にインタビューするよりも「ホンネ」が漏れることがあり、微妙なニュアンスでの意思疎通も多く見られ、それが非常に興味深い、と、私は思った。

しかし、長時間にわかった「座談会」は、あまりに集中しすぎて、司会役の私はかなり疲れて、このまま家に帰りたい、というほどだった。上司に手持ちのスマートフォンで連絡を入れる。

「すみません。座談会終了しました。でもすごく疲れて、これから中野の自宅まで、今乗っているタクシーで直帰していいでしょうか?」

上司が答える。

「よくやりきったな。これは君しかできない座談会だったと思う。まずは帰ってゆっくりしてくれたまえ。その前に….」

そこで、スマートフォンの電源が不意に切れた。電池がなくなったのだ。見れば、スマートフォンの電池のインジケーターが赤く点滅している。電池の容量が低くなると、自動的に電源が切れるのだ。

「しょうがないなぁ」
「運転手さん、行き先変更。まずは中野の駅前まで行ってくれ。後の細かい行き先はそのときに言うよ」

「わかりました」

タクシーは中野の自宅に向かった。

ふと、目の前を見ると、タクシーに備え付けのUSB充電ソケットがあった。「ご自由にお使いください」と書いてある。疲れた頭で、スマートフォンの充電ケーブルを取り出し、それを目の前のソケットにつなぐと、スマートフォンの通知エリアには「充電中」の表示が光った。

そこで、どっと疲れが出て、猛烈な眠気が襲ってきた。霞が関から中野まで、少し路が混んでいたから、タクシーだと40分くらいだろうか。中野駅前で運転手さんに起こされた。

「お客さん、中野駅前ですよ」

「あぁ、ごめん、疲れが出て、寝てしまった」

「いい感じで寝てましたよ。5分くらい前に着いたんですが、私もこの先のしごとがありますのでね。すみませんが、ご自宅までの行き先、教えてください」

運転手に促されて、自宅までの道を細かく教えた。ふと、スマートフォンを見ると、30%以上の充電量になっている。さすがに、45分くらいでは「満タン」とはいかない。

タクシーが自宅に到着。スマートフォンをケーブルから抜いて、USB充電ケーブルもタクシーのUSB充電ソケットから抜いてかばんに放り込む。すぐに自宅の自室に入ると、そのまま寝入ってしまった。よほど疲れていたのだ、と自分でも思った。


「おい。このBLOG。見てみろよ」

その座談会の3日後、同僚の鈴木に教えられたURLでそのBLOGを見ると、なんと、先日、自分が行った「覆面座談会」の内容で語られていた日本政府のこれからの外交戦略と軍事戦略が、詳細に英文で書かれている。この内容は完全に極秘のはずで、座談会出席者には、レポートを書いてから表に出すまでに一度査読をお願いし、問題のある部分の削除などもお願いする約束をしたものだ。たしかに、司会として聞いていて「これは表に出せないな」という情報もあった。しかし、その英文のBLOG記事には、そういう微妙な部分も書かれていた。

思わず私は言った。

「どこから漏れたんだ?」

IT情報機器のエキスパートの鈴木が突き放したように言う。

「おまえ、スマートフォンで録音した、って言ってたよな」

「あぁ、そうだ」

「その後、スマートフォンを自宅に持って帰って、それを昨日会社に持ってきて、内容を文章にしていたよな。それまでに、スマートフォンをなにかに接続しなかったか?」

思い当たった。タクシーだ。タクシーのUSB充電器だ。鈴木は続けた。

「そのタクシー、霞が関を流していたタクシーだよな」

「そうだ」

「それだよ」

鈴木が解説を続ける。

「君の使っているA社のスマートフォンは、充電もA社の専用のケーブル、あるいはA社の認証のあるケーブルでないと充電できない。データ通信・充電両用のケーブルでそれ以外の会社製のものは使えない。B社のスマートフォンなら、充電専用というのがあって、これを使うと、データの通信はできないが、充電はできる、というものがある。でも、君のはA社のやつだ。君がタクシーの充電器にケーブルをつなげたら、充電もされるが、同時にハッキングされ、スマートフォン内部のデータのすべてが吸い取られた、と見るべきだ」

「ということは、座談会の音声データも、そのために連絡をとりあったメールアドレスや電話番号も?」

「そう考えておいたほうがいい」

鈴木は技術者らしい冷静さで、私の行動分析をし、そう結論を下した。

私の机の電話が鳴った。上司からの内線だ。

「レポート、上がっているだろうね?ところで、いま、大臣官房から連絡があってね。。。。」

頭が真っ白になって、その後の言葉は聞き取れなかった。

 


IoTでのセキュリティがなぜ大きな問題になるのか?

Roppongi Hills / Minato-ku, Tokyo

IoTは「Internet of Things」の略であることは、よくご存知だろう。「インターネット」を使わないと、「IoT」ではない。つまり、測定する結果をどこかに送るにしろ、それを受けるにしろ、あるいは、制御情報を送るにしろ、それを受けるにしろ「インターネット」をデータが通らないと「IoT」とは言わない。つまり、「IoT機器」は全て通信にインターネットを使うことが大前提だ。なぜインターネットを使うかというと、遠隔地でデータのやりとりをするからだ。それにインターネットを使うことにより「専用のデータ線」を使うよりも思い切り低いコストで遠隔地どうしで通信ができるのだ。

また、最近のIoT機器で使われている人工知能システムなど、小さな筐体に入りきらない高性能なソフトウエアや、膨大なデータは、クラウドシステムとのデータのやり取りをインターネット経由で行うことは当たり前になった。であれば、インターネットを使わないIoT機器は全く考えられなくなった、と言っていい。

しかし、インターネットを使う、ということは、インターネットという大海を通して、データがやりとりされるわけで、そうなると、大海にいるのは、サメであったりクジラであったり、つまり、ハッカーなどが常にやってくることを考えて、IoT機器を開発しなくてはならない、ということだ。「IoT機器にはハッカー対策は不可欠」ということは、つまりそういうことだ。

 


人工知能は今いる人間のようにしか育たない

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人工知能は「人間が作ったもの」である以上「人間の子供」と言っていいだろう。であれば、人間以上にはならない、とも言える。「子供は親の期待通りには育たない。親のように育つ」という。人工知能に期待する限界は人間の限界そのものだ。

ところが、芸術というのは「人間の限界」を広げる試みのことである。音楽でいえばサティからラベル、さらにはイーノや一柳慧に至るようなものだ。発表当時は「これは音楽ではない」などと言われたものが、時代の流れとともに「音楽」と認められ、音楽というフィールドを広げた。人間にとって「芸術」というのは、「人間の領域を広げる」ものではなければならない、という面がどうしてもある。絵画であれば、印象派が出たときもさんざん言われたのだ。「あれは絵画ではない」などとも言われた。

だから、人工知能に「印象派風の絵を描いて」といって、それっぽい絵が出て来るのは「芸術の領域」ではなく「模倣」である。「心地よいデザイン」は商売ではあっても、芸術ではない。それは「商業デサイン」である。

とは言うものの、芸術家といえど人間であり「食っていく」ことは必要不可欠だ。モノも食べればクソもする。仙人ではないから、お金も必要だ。だから、芸術家も、今は「商業デザイン」で食っていくことはしなくてはならない。しかし、それは「芸術」ではない。

将棋とかチェスなどは、限られた環境の中で、いかに世間の人たちに良いと言われる方向に向かうか、ということであって、これは「芸術」の領域ではなく「商業」の領域である。

本当の芸術家は「これまでにないこと」に興味を持ち、「これまでにないこと」を仕事にする。当然、それは発表したその場では「認められる」ことはないから、商業的成功とは無縁である。人間の活動領域を広げる役目を持って生まれた人間が「芸術家」である。

結果として、人工知能は芸術はできない。芸術家の代わりになるわけではない。しかし、現代の多くの人たちに必要なのは本来の意味での「芸術」ではなく、「芸術っぽい商業デザイン」であるから、それはそれでいいのかもしれない。

 


「神戸製鋼事件」はおそらく。。。。

台湾ちまき

台湾ちまき

他企業に納入した部品などの強度などの偽装をした、などが発覚した、とのことで、神戸製鋼の問題が表面化している。このところ連日のニュースでひきもきらない報道ではあるが、実際のところ、これらの「ひと目ではわからない不正(正確に言うと「スペック不足」)」は、かなり多くの日本企業でも行われていたのは、ぼくもこの目で現場で見ている。どことは特定できる情報をここに書くのは、その企業と自分との間でのNDA(Non Disclosure Agreement – 守秘義務契約)があるわけで、特定できる情報を出すわけにはいかないが、ないかというと「あった」という他はない。ただし、当時の法律に照らしての違法性は無いものばかりだ、というのは、きちんと言っておかなければならないだろう。加えて、大抵は納品先との話も付けているものだ。

中には、その部品が客先に納品され、そこで納入時強度試験が行われて発覚、すぐに製造元に作りなおしの要求が下った、ということは当たり前にある、製造業の「日本の普通の風景」である。このことを知らない、というのは、製造業の外郭にいた「極楽とんぼ」という他はない。「外野」という、いいところで暮らしていらしたんですねぇ、羨ましい、という他はない。

とは言うものの、「有資格者でなければできないことを、無資格者がやった」という事例は聞いたことがないのではあるが。

これは日本に限らず、世界の製造業すべてがおそらく、その国の法律の範囲内で、大なり小なりしていることで、それは製造業のみならず、あらゆる業種に及ぶだろう。業界の内部にいてそれを「知らない」というのは、要するに「カマトト」であり「極楽とんぼ」そのものの「ボケ」である。事実を知らなかったのだ。いまさらこれを「(製造物の信頼性重視の)日本企業にはあらざる大問題である」と言い募るのは完全に的を外している、と言って差し支えない。

たとえば、製造業でなくとも、食べ物はどうか。食べ物の含む放射能や、有害なことがわかっている食品添加物、などなど、現代の世の中には(過去でも)この手の危険がもともといっぱいであって、「完璧なもの」というのは、この世にもともとありえない。人間はずるく、企業は不正を働いても利益を求める。その国の法律の範囲内ではあるんだけれども。神戸製鋼の「事件」は、「そういう事件が起きた」ことが問題なのではなく「そういうことがなぜ今まで隠されてきたか?なぜ今発表されることになったのか?」のほうが大きな問題であるといえる。

しかしながら、関わってきた製造業の企業の名誉のために言っておくが、実はこういうことが日常的に行われていても、大きな事故が起きるのは非常に稀なうえ、違法性そのものはまずない。なぜかというと、その部品がおかしくなっても、全体の仕組みでそれをカバーする、というメカニズムがもともと考えられていることが普通だからだ。そうしないと、たとえ強度不足のない「普通の部品」であったとしても、それに不良品があったり、あるいはなんらかの事故でその部品が破損したり、というトラブルがけっこう当たり前にあることが想定されて、全体のものが作られていることが普通だからだ。しかも、もともと要求されたその強度の値そのものが「オーバースペック」であることもかなり多くあり、部品メーカーとしては、製品メーカーから言われた通りのスペックのものを作る、というよりも、そのスペックの根拠を製品メーカーの現場から教えられ、強度不足でも別のところでカバーする、ということも考えて、そういう部品を作っていることがあるからだ。このあたりの複雑さは、現場で実際にものを作ったことがないとわからないだろう。

日本についで「工業化」に邁進した韓国でも、2014年から2015年にかけて、原発に納入した部品の強度不足などの不正が日常的に行われていたことが発覚し、大問題となったのも記憶に新しい。日本人で日本のニュースしか見ていない、業界外の多くの人たちは、このニュースを「韓国だしね」などと言っていたのだろうが、要するに、日本も同じようなものだ、ということだ。いや、私が内部から見ている製造業はすべて、どこかにそういうものがないとはいえない、とだけは言って置く必要がある。

※内容についてお問い合わせがあったのでそのお答えの部分をここまでで加筆しました。

【以下さらに追記】2017/10/15

今日の東洋経済の記事では、どうやら、部品を納入した製品メーカーとの交渉が始まっている、ということのようだ。今回の場合「悪質」とみなされているのは、一般とか部品を納入している製品メーカーに一切知らせずに「法律違反」をしていることと、「指定されたスペックの部品を入れていないこと」だ。しかしながら、現在のところでは「それによる問題は表面化していない」とのことが記事に書いてある。実際、こういった部品では、製品システム的な観点からすると、不良品などの発生で製品設計時に部品の強度がスペック通りに至らない場合などを想定して、製品を作っている、ということはわりとあるうえ、その部品のスペックの限界を必要とする事態そのものが非常に少ない、ということもあるのだろう。とは言うものの、「強度不足などの問題を製品メーカーにちゃんと説明し、納得を得られていない」ということと、「無資格者による製品検査が行われていた」という「明らかな法令違反」は、やはり問題がある。私が製造業のコンピュータ・システムを多く作っていたときに見た現場では「顧客に黙って」ということは一切なかったし、法令違反も見たことはない。とは言うものの、法令そのものが当時から比べると変わっているところもあるのかもしれないが。いずれにしても、製造業の現場というのは、「スペック通りできない」ということもけっこうあって、そういうときは、顧客も含めて関係者一同、集まって「どうしようか?」などと会議を始めるのが普通だ。「黙って違うスペックのものを入れている」ではやはりお話になるものではない。


「IT」についての個人的な歴史

Roppongi Hills / Tokyo

Roppongi Hills / Tokyo

ITの仕事は自分はいつはじめたんだろう?その仕事をはじめたときは「IT」という言葉はなかった。大学生のとき、目の前にあったのは、アナログ電子回路、デジタル電子回路(当時は「パルス回路」という分野もまだあった)、そして、メインフレームの大型コンピュータ、まだなにができるともわかっていなかったパーソナルコンピュータ。そう、その時期はパーソナルコンピュータの出始めの頃で、そのときはみんながこんなに使うとは思っていなかった。とにかく、「これが世の中を変えるかもしれない」というワクワク感が、ぼくとその仲間にあった、という意味ではバンドをやっている人たちと、感性は似ているんだろうな、と、思う。気がつけば、世間サマとか大企業がぼくらのはじめた技術に注目をはじめていて、ぼくらはその最先端に立った。

今でこそ、コンピュータと通信というのは、切っても切り離せないものだが、ぼくらがコンピュータをはじめた当時は、「コンピュータ」と「データ通信」は別の分野だった。もちろん、インターネットはぼくらがそういうものをはじめた後から出てきた。毎月のように米国に行って、今のインターネットの技術を見てまわり、聞いてまわった。あのとき、いったいいくらのお金を使ったのか?今では想像できない。ぼくらもアイデアを出し、それは米国の研究機関やエキスパートたちのそれと融合した。

ぼくらは「IT」という言葉ができる前から「IT」をやっていた。新しいものは世の中に認知されていないから、ろくにそれに名前もなかった。ぼくらは自分の身体で「新しいものをする、ということはこういうことだ」ということを学んだ。新しいものには名前がなく、それが世の中にあることなんて、普通の人は想像もつかない。ましてやそのときは名前もついていないようなものが、世の中を変える、というぼくらの「実感」なんて、他の多くの人に、わかりようもなかった。

今思えば、ぼくらは技術者でもなければ研究者でもなかった。それは芸術家に近かった。とにかく「それ」が面白かった。のめり込み、寝食を忘れた。しかも、なにをしているのか、一般の人にはわからないし、それまでの電子回路とかの技術者にも、見えない世界だったんだ、と今になって思い出す。その時代、ぼくらはそのことを実現する哲学と人並み外れた集中力をみんな持っていたことだけは確かだ。

今思えば、なんというとんでもない世の中の流れの渦に巻き込まれていたことだろう。

気がつけば世の中全部がITなしでは動かない時代に切り替わった。ぼくらがかつて夢中になってやっていた、名前もわからない「なにか」は「普通のこと」になった。これが時代の変わり目というものか。これがその時代の変わり目を作るということか。それは、命がかかった「革命」に近いものではあったが、革命ではなく、革命以上に世の中の動きを根底から変えた。ぼくらはその真ん中に、図らずもいたのだ。そうしようと思ってそこにいたわけではない。なにかの偶然と、言葉にできない「カン」、そして「適性」があったのだろう、と、今は思う他はない。

しかし、この「経験」は、他の人ができない、稀有な経験ではあったが、それが後で役に立つ経験でもない。一生のうちに、何度も同じ局面なんてありそうもないほど、それは大きな変化だったからだ。と、言うのが最近わかってきた。

ああ、そうか。自分のコアにあるのは「芸術」なんだな、と、最近は思う。技術ではなくて、研究でもない。

英語で芸術のことを「Art」と言う。「Artificial Intelligence」は人工知能。「Artificial Color」は人工着色料。「Art」という単語は、「人間のすること(作ったもの)」というような意味がある。漢字で表現すると、「行」ということか。そうか、自分のやっていたのは「Art」だったんだな、と、納得するしかない。

ぼくの実感はこうだ。「Artが世の中を変えるのだ」。